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日常の中で消えゆく命。社会の”現象”としての死。

最近の休日はランニングをルーティンにしています。
運動を避けてきた26年間でしたが、特段嫌いなわけではなく、むしろ汗をかくのは好きな方だと思います。

平均して1週間に20キロ。
多いか少ないかは分かりませんが、休日の朝早くに10キロ弱走って汗を流すことは、その日一日、その週1週間を気持ちよく過ごせる一因になっています。

無論、体力づくりといった意味もあり、これからどんどん自分のやりたいことに邁進する為にも、バテない身体を作っていきたいと思っています。

今日は、そんなランニングの最中に遭遇した出来事について書きたいと思います。

タイトルでなんとなくお察しかと思いますが、「死」とか「人の命」についての内容になっています。
短な死を清算できていない、消化出来ていない方は、以下読まなくても大丈夫です。
またいずれ、思い出した時に読んでください。


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珍しい警察車両とサラリーマン

いつも通る道。

閑静な住宅街で、目立った建物といえばどこかの会社の自社ビルがあるだけで、あとは、沢山の家と公園と電柱と。
どこにでもある都内の住宅地です。

そこを僕はほとんど毎回のランニングで通ります。

走るのは午前中。だいたい9時〜10時くらい。

通勤通学がひと段落し、平穏な日常が流れています。

その日を除いては。


見慣れない警察車両。

パトカーでも無ければ、交通課の車(ミニバン)とも違う。

周囲の雰囲気に物々しさのなく、警察関係者が3人。

大きな大きなゴム製にも見える長方形の袋を3人がかりで運んでいます。

遺体です。


現場のすぐ横では、サラリーマンがいい感じの距離を保ちながら様子を見守っています。
手にはタバコ。
一服入れている最中だったのでしょう。

社会の荒波に揉まれ、暑い夏空の下でひと時を過ごしているサラリーマンと、

社会の場末で、誰に悲しまれることもなく、粛々と”処理”されていく最期の時。

非対照的な姿でありながら、僕の目には不思議と一体の景色に見えました。

非日常の臭い(におい)

野次馬になるのを嫌った僕は、ペースを落としつつも、その場を通り過ぎました。

警察車両の横を通り過ぎる時、異臭を感じました。

その異臭の正体が、ご遺体から発せられるものなのか、自宅の中の臭いなのか、はたまたそれら一連の事故とは関係のないものなのか、僕には分かりませんでした。

ただ、その異臭は日常感じるものとは異なり、何か僕の頭の中に今まで感じたことのない感覚を残しました。

死への寂しさなのか、「社会」の中で静かに閉じていく命への嘆きなのか。

一瞬感じた臭いの中で、自分の肉体・精神と社会が同化していくようでした。

日常と郵便局員と犬

その後もランニングを続け、いつものルートを走り、いつものコンビニに寄り、いつも買っている100円の水を買い、半分飲んで、半分は頭からかけました。

自分の身体が生き返るのを感じると、また走り出しました。

帰り道、また”あの場所”に戻ってきました。

もとの静寂が戻り、つい30分前に起きた出来事をすっかり忘れてしまったようでした。


外では、50歳くらいの女性が打ち水をしています。

郵便局員さんがバイクを停め、ポスティングをしています。

70歳くらいのおばあちゃんが犬を連れて散歩をしています。


もうそこはいつもの風景でした。

いつもの、いつも僕たちが目にしている、何もないように見える、いつもの街でした。

事象ではなく、肌感。〜社会問題であることが問題〜

あえて”非日常”と書きました。

それは、社会が今抱えている分断化を表してるようにも感じたからです。

僕たちは、人が死にゆく光景を「日常」とは切り離されたものと考えがちです。

警察車両が止まっていればなおさらそう思うでしょう。

どうしてどう思うのでしょう。

2018年統計(厚労省人口動態調査)によると、
死亡数は 136 万 9000 人(出生数は 92 万 1000 人)。
1日に3750人が亡くなっている計算です。
1時間に156人、1分に2.6人が亡くなっています。

死亡者数全体に占める「在宅死」が13%前後と言われるので、1年間での在宅者数は約177,970人。1日に487.5人。1時間に20人が亡くなっています。

人口分布から単純に見てみても、都内だと1時間に2人ほどがどこかの自宅内で亡くなっています。

死は日常なのです。

出産よりも遥かに多く、僕たちの日常の中に存在しています。

それでもなお、僕たちは日常の中の死から目を背けがちです。

出産・子育てに関する問題もまだまだ山積しています。
しかし、今回は一旦それを横に置いておいて考えていきたいと思います。

死を日常から除外してしまう僕たちの生活は、なぜ平穏(に見える)に進んで行くのでしょうか。

それは、先にも書いたように、社会の「分断」が原因だと考えています。

新聞にお悔やみが掲載されることもなくなり、地方の放送局でも一部を除いて放送されることがなくなりました。
個人のプライバシーを重視するという傾向からだそうです。

最近、プライバシーに関するある論述を目にしました。

ープライバシーは「社会」とそれを補完する「行政」のバランスを保つため。

つまり、行政の過度な介入を防ぐため、というのが本質的な意味だったそうです。

しかし、マスコミ・教育機関・その他メディアの歪曲した情報発信により、「個人の情報を他人に見せないこと」だけが一人歩きし、本質が形骸化し、プライバシーという、ある意味では補足的役割だったもの、手段的だったものが、目的化してしまったのです。

勘の鋭い方ならお気づきかと思います。

なぜ近所で沢山の人が亡くなっていることを知らないのか、なぜ近所で沢山の人が亡くなっていることに何も感じないのか。

人口減少、少子高齢化、孤独死、地縁血縁社縁の形骸化。

人は言葉によって支配されがちです。

これらの社会を取り巻く諸問題も、強烈な言葉によって支配されています。

なぜ、これらが問題となり得るのでしょうか。

日常の中に当たり前に存在しているのに。

「問題」として、自分の肉体・精神から切り離すのではなく、いかに僕たちの生活、地域、社会の中の出来事として、ある意味では通過儀礼(生ける者にとっても、死にゆく者にとっても)として、

1人のおばあちゃんの死を、近所の子供、近所の主婦、近所のサラリーマン、近所の長老とともに、みんなで受け入れていくことが、現代日本において必要なのではないでしょうか。


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<終わり>



シニアの方々が、主体的に・楽しく生活し続けられるよう、頑張ります!少しでもご協力頂けると幸いです。