20歳の夏、飲み会に参加することから初めてみた〜#あの夏に乾杯〜

”小賢は山陰に遁し大賢は市井に遁す”
(しょうけんはさんいんにとんし、たいけんはしせいにとんす)

この言葉をご存知でしょうか。

由来を調べたのですが、明確には見つかりませんでした。
”中国の昔の教え”みたいです。

意味は、

「本当に賢い人は山などに籠って学習するのではなく、町の中、庶民の生活の中にこそ学ぶべきものがある。」

といった感じだそうです。

机上の空論ではなく、手を動かせ。

僕はこう解釈しています。

この言葉に初めて触れたのは、田坂広志さん(多摩大学大学院教授)の講演映像でした。

社会人2年目の終わりに、僕の会社の社長にこの動画を教えてもらいました。
いい会社ですね。(忖度感)

この言葉を聞いた時、もちろん”社会人”としての自らの姿を重ね合わせていたことは事実ですが、もう一つ考えていたことがあります。

それは20歳の夏でした。
自分の生き方が変わった(今にしてみれば学生の未熟な日常に見えますが)出来事でした。

”小賢”になろうとしていた

18歳までの僕は、田舎でくすぶっていました。

くすぶっていたというより、「絶望」していました。

土地や人に絶望していたというよりも、「雰囲気」に絶望していました。

子供の活動の選択肢は、たった三つしかなかったように感じていました。
・勉強
・スポーツ
・ケンカ

辛うじて勉強はそこそこできた(田舎の公立学校の中では、ですが)ので、周りのいわゆる”大人”から目をつけられることはありませんでした。

ただ、「好きなことをやる」という雰囲気はほとんどありませんでした。
子供はまるで通過儀礼であるかのように「ソフトボール、野球、サッカー、バレー」をしなければならないし、勉強は”そこそこ”にできないといけない。

僕にとっては窮屈な少年期でした。

自分の好きなこと、やりたいことを大声で言えるような雰囲気ではありませんでした。

ここから出たい。

「受験」という武器を手に入れた僕は、その”小さな雰囲気”から飛び立つことを決意しました。

高校は隣町に行き、大学は関西に出ました。

自分や自分の周りにはない、もっとたくさんの人や物や考え方に触れたかったのです。

それでも、状況はそこまで好転することはありませんでした。

関西の中で「そこそこ有名」で「そこそこ優秀」な大学に入学した僕は、目の前の現実に唖然としました。

入学早々に多くの学生が勉強を放棄し、スマホと飲み会だけに終始する生活に変わって行きました。

入学金は安くはありません。
授業料だって安くはありません。
一人暮らしだって、決して裕福ではない両親に文句一つ言われずに生活費を出してもらっています。

”こいつらは大学を舐めているのか。”

大学に入学して間も無く、僕の恩師である先生に相談しました。
先生は僕のその気持ちを既に察してくれていました。
「三宅くんは頑張って勉強して、大学に入って、大学に来てからやろうとしていることや目指していることに対して、周りとの違いを感じるかもしれない。大丈夫だと思うけど、苦しくなったら相談に来なさい。」
関西学院大学商学部:安田聡子教授(当時:准教授)、多分僕が「教育機関」の中で”唯一”尊敬できる先生でした。
昨年の僕の結婚式・披露宴にも招待させて頂きました。

先生の支えもあって、田舎坊主だった僕は、なんとなく関西という”都会”の中で自分を生きていくことに自信が持てました。

友達と”綺麗なお姉さん”

大学に入って2年間。そこそこ勉強したと思います。
文系学生の中では量・質ともに一生懸命勉強しました。

しかし、サークルや部活には所属せず、学校で勉強する以外は家で本を読んだり、勉強したりしていました。

「外に出たい」

幼少期から学校に囚われず活動してきた僕にとって、内にこもっていることへのストレスは半端なかったです。

でも、怖かった。
恥ずかしかった。

どうしたら外に出られるのか分からないし、出ようとすると都会の雰囲気に飲まれて気後れしてしまう。

どうすることも出来ずにいました。

大学三回生の夏。

友人と2人で大学内のカフェで昼食を摂りながら話していました。

「ねえねえ、何回生?就活してる?」

声をかけてきたのは少し年上に見える女性。
まだまだ田舎坊主から抜け出せていなかった僕にとっては、その女性が輝いて見えました。

”綺麗だ・・・”
ぼーっとしている僕(バカ)を尻目に、彼女は話を続けます。

「実は、今就活生向けのイベントを企画していて、大学内で声をかけてるんよ。」
「私〇〇(超有名人材系企業)に内定していて、内定者の企画って言ったらおこがましいけど、大学の枠を越えて交流しあえるようなイベントにするから、ねえ、ぜひ来て!」

関西でそこそこな大学なだけあって、そういった宣伝や声かけは過去にもありました。

でもなせだからそれまでは乗る気になれず敬遠していました。
多分斜に構えていただけです。
自分は特別だと思っていただけです。

謎のテンション(バカ)になっていた僕は、お姉さんの誘いに乗りました。
一緒にいた友人も強引に誘い、行くことにしました。

同じであって、同じじゃなかった

飲み会の内容は、ほとんど覚えていません。
近くの席になった同年代の学生と次から次へと、「初めまして〜〇〇大の**と申します!」とやってきては、1分ほど話し、去っていきます。
いわゆる大型のコンパでした。

「疲れる・・・」

正直そんなことを思っていました。

でも、その飲み会で大きな出会いがありました。

100人近く参加した学生の中には、自ら団体を立ち上げている人や起業している人、体育会で全国優勝を目指している人。

僕が今まで出会ったことのないような人ばかりでした。

同い年。平成一桁台に、同じように生まれた人ばかりです。

「自分と全然違う。」

意気揚々と大学に入り、”自分は他の学生とは違う”、”自分はしっかり勉強している”、そう自分に言い聞かせていました。

自分はちゃんとしている。

しかし、僕の目の前にいる同級生たちは、自分のやりたいことを、「やって」いました。
もしかしたら勉強はしていないかもしれない、単位も落としているかもしれない。
ただ、僕の目には彼らが輝いて見えました。

だって、現実に自分のやりたいことに向き合っているから。
言い訳をして、なんとなく時間をやり過ごしていた僕とは大違いです。

自分が世界を変えると思っていた。

でも、本当に世界を変えるのは彼らだ。

そう気づきました。

部屋から出て、とりあえず走りながら酒を飲んでみた

20歳の夏。

衝撃的な出会いをした僕は、生き方を変えました。

6畳一間の下宿アパートの中でグズグズしているわけにはいきません。

それからの僕の大学生活は、ほとんど家にいない生活を送りました。
SNSを通じて、とにかく気になった人全員と会い、誘ってもらった団体で仲間を見つけ、一緒に企画書を作り、企業に提案に行ったりしていました。

今思えば、夏休みの宿題に毛が生えた程度のことだったのかもしれませんが、とにかく楽しかったです。

誘われた飲み会は絶対に断ることなく、すべて参加しました。

インターンも、バイトも、イベントも、団体活動も。

もしかすると中途半端だったのかもしれないけど、持てる力を出し切れるだけ出して取り組みました。

自分の未熟さや不甲斐無さ、かっこ悪さも、死ぬほど味わいました。

介護の世界を変えたいと言っているわりに、目の前の仲間一人救えない。
そんな現実にぶつかったこともありました。

それでも、あの夏からの一年半は、全速力の大学生活でした。

あれから6年後の夏。

そんな出会いからもう6年になります。

あの夏、そしてその後一年半の間に沢山の人と出会いました。
多分その経験がなければ、今僕が東京にいることもなかったでしょう。

あの経験が僕にパワーをくれました。

今の会社に突撃直談判して面接してもらうこともなかったっでしょう。

入社1ヶ月目のペーペーなのに、一人で営業に奔走できることもなかったでしょう。

そして、今、大切な仲間とともに、自分のやりたいことに囲まれることもなかったでしょう。

”小賢は山陰に遁し大賢は市井に遁す”

今、この言葉の意味を考えると違って聞こえます。

「とにかく外に出ろ!」と言うのは簡単ですが、出来ないもんです。

そうではなくて、

今、自分の見ている現実は、もしかすると本質的な現実ではないかもしれない。

と”自分を疑う”ことかもしれません。

人間は、自分の見たいように現実を見ます。

そして、人間は独りよがりです。

自分の内に強烈な”正しさ”も持っている、厄介な生き物です。

そんな厄介な自分に向き合い、自分が何者かを問うてみることで、今いる場所が本当に自分のいたい場所なのかが分かるはずです。


20歳の夏、僕は勇気をもらいました。

その勇気は、あの綺麗なお姉さんから貰ったのかもしれないし、飲み会からもらったのかもしれないし、出会った仲間からもらったのかもしれません。


もし、皆さんが、あるいは皆さんの周りに、くすぶっている人がいたら、こう言ってあげてください。


「乾杯すれば?」


その一回の乾杯が、人生にとってかけがえのない一瞬になるかもしれません。

20歳の夏、僕に勇気をくれた、あの一瞬のように。


<6年前の、あの夏に乾杯>





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