すくなくとも散歩に出られる自由がある

あしたは早起きして散歩に行こう、と思うと、わくわくした晴れやかなきぶんになる。前世が犬なのかもしれない。

飼い犬の多くは散歩の時間が近づくにつれそわそわし始め、犬によっては飼い主が「散歩」という単語を口にしただけで、鼻をきゅうきゅう鳴らして行きたさを全面アピールする犬すらいる。

しかし犬は不便だ。勝手に散歩にも行けない。そのへんを一匹でほっつき歩いているとすぐ保健所に通報されてしまうからだ。その点、人間はひとりでふらふらしていてもよほどのことがないと通報されない。勝ちだ。犬に勝ってそれがなんだというのか、と訊かれると、言葉に詰まるのだけども。

朝、おもてを歩いていると、少なからず人とすれ違う。たいていわたしより年上で、そのうちの半分以上がお年寄りである。そのひとたちはそれこそ犬を連れていたり、畑で使うのであろう鍬を持っていたりする。わたしの場合、いちばん早くても出ていくのは朝の5時だが、友達は以前4時あたりに散歩に出ていて、その時間帯にすら複数人のお年寄りとの邂逅を果たしていたそうだ。朝の4時に、既にお年寄りは身支度を済ませて揚々と散歩に出ているのだ。年をとると、時がどんどん前倒しに過ぎていくのだろうか。おもしろい。人間は、老いは、つくづくおもしろい。

わたしの住む土地はそこそこの田舎なので、24時間あいているスポットはコンビニしかない。喫茶店はいちばん早いお店でも朝6時からだ。だからわたしの散歩は、時間としては6時から7時のあいだに家を出て、お金に余裕があるときは喫茶店を目指し、ないときはコンビニを目指す、というパターンがいちばん多い。ごくまれに朝マックに行くときもある。あてどなく歩くより、なにかしら目標を持って歩くほうが好きなのだった。

散歩に行くときには、自分の足に合った靴を履くことが肝心である。アウトレットで三千円で買ったプーマのハイカットのスニーカーは、履き口が細いので脱ぎ履きはしづらいが、履いてしまうと軽い上にめちゃくちゃに歩きやすく、いまいちばんのお気に入りである。明日も履く。

ところで、ひとりで喫茶店に行ったときのわたしの気に入りの遊びは、好きなノートに好きなだけ思ったことを書き散らかすことだ。津村(記久子)さんがいうところの、feel freeというやつ。例を挙げてみよう。

「もう恋愛はしばらくいい、と本気で思っていたときは誰かに自分から声をかけて鳴かず飛ばずでもケロッとしていたのに、いざ彼氏が欲しい!と思い始めたら、ライン一つ送るのにも果てしなく悩み、送ったら送ったで、今度は返ってこない時間がのびるにつれ、『内容がキモかったのでは?』と不安になり落ち込む。そして結果的に芳しい成果が得られないと、『私がキモいからだ』『私のような女に好意をほのめかされて、さぞ相手は気持ち悪かったであろう』という激しい自己嫌悪と自己批判が止まらなくなってしまう。しかし私は本当にキモいのか?だとするとどのへんがキモく感じられるのか?(以下、自分のキモさに対する分析もどき)」

こんなようなことをえんえんと書いてはほたえているといった寸法。あらためて書いてみるとアホ丸出しだが、書いているときはいたって真剣に書いている。ちなみにこの件に関しては、さんざん思い当たる節を挙げ列ねたあげく、ぶった切ってきたり既読無視してきた相手のことではなく自分のことをキモいと感じるのは、やはり自己肯定感が極端に低いことの現れではないか、というおきまりの結論にたどりついてしまった。この結論にはいささか食傷気味なので、新しい意見を取り入れたいものだ。自己肯定感に関しては、あまりにも根源的な悩みすぎてすぐには解決できそうにないので。

明日はどこを目指すかまだ決めていない。どうせ眠れないなら早く起きて活動してやろう、という気概だけはあるので、たぶん喫茶店に行って本を読むと思う。遠藤周作のエッセイ「明日という日があるじゃないか」、坂本龍一の自伝(めいた本)「音楽は自由にする」中途半端に交互読みしていたこの2冊を明日中に読み終えてしまいたいので。そしてまた本を借りに行く。なんでこんなに本が好きなのか、どうして読書をやめられないのか。そのふたつの疑問にはひとことでこたえられる。「楽しいから」だ。それくらいシンプルに生きられたら楽なのになあ、と思うが、現実はそううまくはいかない。

考えなくてもいいことをしょっちゅう考え続けてしまうめんどくさいわたしは、それでも散歩に行く自由(とわずかばかりのお金)は持っている。その事実がわたしを大いに救い、また、強くしている。

#日記 #エッセイ #雑記 #生活 #散歩 #生き方

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