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都鳥のこと


かつて墨田川にあった渡し舟「竹屋の渡し」は現在の台東区山谷掘南岸と対岸の墨田区向島の三囲神社下の間を行き来していた。

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向島岸辺の茶屋「都鳥」から対岸の「竹屋」に船を呼ぶ女将の「竹ヤー」の美しい声が有名だったと伝えられ、その都鳥で浮世絵/新版画の摺師をしていたのが私の曽祖父、高橋豊吉だった。

現在の言問橋が出来るまで、都鳥は渡し船の発着場として茶屋を代々やっていたらしく隅田川の花見名所にもなっていたようだ。言問と都鳥の名詞的関連から言えば、伊勢物語に収録されている「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」の歌とも繋がりがあるように思えて興味深いけれど都鳥茶屋は東京大空襲で焼け、いまその由来を詳しく知る人は居ない。

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また明治29年の小林清親に「東京名所真景之内 如月 待乳山雪の黄昏」という三枚続きの浮世絵があり、都鳥から竹屋へ向かう渡し船を描いている。おそらくこの絵が描かれたのは豊吉が十歳前後の頃だ。曽祖父の残した版画には小林清親の門人の土屋光逸の作品が多数あり、何かしらの交流があったように思われる。

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私がいま新たに浮世絵をつくってみたいと思ったのは、この曽祖父の話を幾度となく聞かされていたことが大きいように思う。そして何より家に遺された超絶的技巧で造られた木版画を小さい頃から眺めていたことも決定的な体験だったのかもしれない。

曽祖父の遺した浮世絵を私に伝えてくれた祖父は、いまはもう亡くなり沢山の思い出のあった家も取り壊された。戦火で消えた都鳥の記憶は残念ながらいまや手の届かない彼方にある。

今回、令和時代の新版画を作るというコンセプトのもと版元として作品を発表していくことになった。今は絶えてしまった浮世絵→新版画の系譜を継げるよう、曽祖父に肖り屋号として「都鳥」の名前を拝借した。

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