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サヨナラだけが人生だ*宝塚雪組『幕末太陽傳』

コノサカヅキヲ受ケテクレ(勧君金屈巵)
ドウゾナミナミツガシテオクレ(満酌不須辞)
ハナニアラシノタトヘモアルゾ(花発多風雨)
「サヨナラ」ダケガ人生ダ(人生足別離)

井伏鱒二訳 「勧酒」(于武陵・うぶりょう)

これは、唐の詩人、于武陵の詩を井伏鱒二が訳したもの。映画『幕末太陽傳』の監督、川島雄三は、井伏鱒二を崇拝していて、『貸間あり』を映画化したときには、ラストシーンで突然、桂小金治に丘の上から街へ向かって立ち小便をさせ、「サヨナラだけが、人生だー!」と叫ばせている。

横で見ていたフランキー堺は、「じつにまあ、なんとうまいことをいわせる監督かな、体内からサヨナラする体液の、はかなく消えゆく泡にも似た人生の別離を、映画全編のエンドにひっかけて、このワン・カットに凝縮するとは、なんとすばらしい才能かな」と感嘆したという(『サヨナラだけが人生だ 映画監督川島雄三の生涯』より)。

『幕末太陽傳』でも、便所のシーンが何度も出てきたので、辟易したフランキーさんが、「また、ですか?」というと、川島雄三は、「吸収ばかりでなく、排出の方もしなければ…」と答えて、クックッと笑ったと、この本には書かれている。

いかにも食えない親父が言いそうなことだ。小便の場面なんてと、思うかもしれない。でも、宝塚版の『幕末太陽傳』から、それほど遠い話でもない。

涙だって、小便と同じ体液なのだ。宝塚版『幕末太陽傳』に放尿シーンや便所のシーンはないけれど、「サヨナラ公演」という、ともすれば別離の感傷でいっぱいになりそうなところを、笑いと少しの涙ともに、いろーんな思いを気持ちよく排出できる快作となっている。まさに、川島雄三的といえないだろうか(いえないか(笑))。

それはともかく、よくも、こんな企画が実現したなあと思う。

映画が好きなので、過去に宝塚でやったらどうだろうと考えたことはあった。でも、遊郭の話だし、娘役が演れる役がほとんどない、男役がカッコイイ役だって同じ、第一、佐平次がトップスターなんてあり得ない。「絶対に無理」という結論に達した。

ところが、実現しちゃったのだ。

実現に至ったのにはさまざまな要因があると思う。まず、小柳菜穂子先生と雪組の組み合わせで、壮一帆トップ時代に映画『Shall we ダンス?』(周防周防正行監督)の舞台化を成功させたこと。そして、「ちぎちゃん」こと、早霧せいなの代になって『ルパン三世』をヒットさせたこと。早霧さんがルパン=佐平次役者だったこと。相手役が芝居に定評のある咲妃みゆだったこと。雪組が日本物の芝居に長けていること。雪組でヒット作を出し続けたこと。そして、ちぎちゃんがみゆちゃんと雪組のトップとして作品を作り続けてきた3年の時間…。宝塚版の『幕末太陽傳』は、こうしたものが重なり合って実現した、奇跡のような作品なのではないだろうか。

そして、これは完全な妄想だけれど、ちぎちゃんとみゆちゃんが「面白れえや」「新しいことをやってみよう」と思わなければ、実現はしなかったのではないかと思う。

ちぎちゃんの面白いのはこういうところだ。人も物事も選ばず、すべて受け入れてしまうようなところがある。

正直にいってちぎちゃんは、芝居もダンスも歌も、うまいかと聞かれるとよくわからない(笑)。舞台より、映画やドラマが向いているんじゃないかなとも思う。でも、舞台に立つと、ひょうひょうとした面白さや軽み、言語化は難しいけれど、気持ちをゆるませてくれるような魅力がある。

それがどこから来るのか、舞台を見ながらあれこれ考えるのだけど、自意識や邪気が希薄なことと無関係ではないよえな気がする。

宝塚歌劇の舞台ではいつも、自分をよく見せよう、カッコよく見せよう、もっと成長したい、もっと上に行きたいというような自意識や野心が飛び交っている。あまりにもそういう意識の濃度が高くなってくると、わたしは疲れてしまったりするのだけど(もちろん悪いことではないけれど)、ちぎちゃんの舞台にはそうしたものがとても少なく、いつもいい風が吹いている。

あまりに涼やかなので、最初のうちは存在感がないように感じることもあったのだけど、『ルパン三世』を演じた頃から、別のステージに行ったような気がしている。ちぎちゃん自身が、使命感や責任感から解き放たれて、舞台を楽しめるようになったと感じた。トップとしているということに慣れて、相手役のみゆちゃんや、二番手のだいもん(望海風斗)、組子たちにゆだねることができるようになったのかもしれない。

少し前の話になるけれど、『Shall we ダンス?』でエラ先生を演じた頃は、ソロ歌の場面になると、手をぎゅっと握って、ハラハラしながら見守った(笑)。劇中、エラ先生が、競技会に出場する壮さんのヘイリーに「音楽を聴いて。楽しむのよ」と声をかける場面があったけれど、そんな気持ちか。それがいつの頃からか、自然に観ていられるようになった。ちぎちゃんの心のうちはわからないけど、舞台の上で気負わずに「ちぎちゃん」としていられるようになったんだなと思った。

そうなると、屈託のない性質が役ににじみ出てくるようになって、今の、なんだかよく分からないけど気持ちのいい、ちぎちゃんスタイルの芝居が出来上がったんじゃないかなあ。分からないけど。

そんな個性が、『幕末太陽傳』の佐平治にぴたりとハマった。ちぎちゃんは、きれいな人の多いタカラヅカの中でも近年稀な美人さん。普通に考えたら、佐平治はそんな人の演じる役ではない。「美」なんて、あっても邪魔になるだけ。なのに、それを成立させてしまった。見事というほかはない。

佐平治だけではない。『幕末太陽傳』に出てくるのはくせ者ばかり。

例えば、みゆちゃんの演じるおそめは、郭で育った遊女。客をだますことが商売だと割り切って、逞しく生きている、かわいい悪女。今回退団となるあんりちゃん(星乃あんり)に、板頭(ナンバーワン)の座を奪われ、とっくみあいの喧嘩をしてしまうという、深読みするとなかなかエグみのある展開もあり、ごく普通に考えて、トップ娘役が最後に演じる役ではない。

同じく今作で退団となるだいちゃん(鳳翔大)が演じる貸本屋のきんちゃんだってすごい。おそめに、どうせ身寄りも金もないんだから一緒に心中しようとたぶらかされ、一人品川沖に沈められ、お化けになって棺桶から出てくる。これも普通に考えると、カッコよさで売ってきた男役スターに何をさせるか、といったところだが、これが世紀の名演だった。

次期トップが発表されているだいもんは、映画では石原裕次郎が演じた高杉晋作役。唯一カッコいい役どころ。少ない場面ながら、肝の据わったところを見せて、ほれぼれさせてくれる。

(ちなみに、この作品が川島雄三の日活での最後の映画になったのだが、「これからは石原裕次郎の時代になる。今後の映画作りは若い方の線で行くべきだ」と、日活の江守常務に進言したという)

だいもんの相手役に決まっている真彩希帆ちゃんが演じた「おひさ」も面白い。遊郭で下働きをしていたが、博打好きのおとっつぁんに借金の形にされて、遊女にさせられそうになるが、「お女郎になるのは嫌」だから、若旦那の徳三郎(彩風咲奈)と一緒になってしまえば、借金をチャラにできると考える。なんと大胆な! 普通に考えて、あり得ないし!(笑)

おそめとおひさ。恵まれているとはいえない境遇だけれど、二人とも、機転を利かせて、自分から運命を切り拓いて、郭を後にするのだ。すてきじゃないか。

他にも、おかしな人たちがいっぱいだ。でも、みんな、つらいことを笑い飛ばして、懸命に生きている。まさに庶民が活躍する、江戸落語の世界。

「♪ たとえ苦しい時代でも 明けぬ夜はない

   上る朝陽を見つめながら 羽織ひっかけ 走り出す」

そんなしたたかで愉快な町人魂が、佐平次のテーマ「居残り稼業」にしっかり織り込まれているのも楽しい。

それにしても、奇跡的と言うしかないくらいに「サヨナラ公演」にぴたりとハマっているから驚く。実際、小柳先生がオリジナルの脚本に書き加えた部分はとても少ない。いかにも次のトップスターへのバトン渡しの場面風になっている、佐平次が高杉に、徳三郎とおひさを頼む場面のセリフだって、オリジナルそのままなのだ。

ちぎちゃんが、次期トップのだいもんに「よろしく」と頼むのが、相手役となる真彩希帆ちゃんと、二番手につくのだろう彩風咲奈ちゃん! 二人の舟祝言の舟を漕ぐのが煌羽レオくんで、「高砂」を歌うのが彩凪翔くん!

品川沖へ出て行くこの舟を、佐平次が見送る場面がとてもいい。

翔くんがいい声で歌う「高砂」は、ちぎちゃんとみゆちゃんの船出を祝う言祝ぎでもあるのかもしれないと思う。

さて。オリジナルの脚本に小柳先生が書き加えた部分はとても少ないと書いたけれど、その例外的な一つがラストシーンだ。

映画では、「一緒になりたい」というおそめとこはるに、「早発ちで出掛けなくちゃならないもんでござんすから」「まっぴらごめんなすって」と言って、佐平次が、こっそり宿を抜け出して行くところで終わる。

一人でトットといなくなってしまうのが、いかにも佐平次らしくて好きだったので、大劇場で初日の舞台を観たときにはここに不満が残ったけれど、次に観たときには、「これこそタカラヅカだ」という気持ちに変わっていた。

おそめを連れて、二人で品川を後にするラストにしたことで、川島雄三の『幕末太陽傳』を、より現代的にし、さらに、フェミニズム的な配慮も加わった。

『ETERNAL CHIKAMATSU』でデヴイッド・ルヴォーが、近松の心中物語のラストを書き替えたように、小柳先生も、鮮やかに「死なない心中物」を書いてみせたのだ。

最後の花道で、心中物の主人公のように、おそめの手を取ったちぎちゃんが、二枚目風の顔をつくったあとで、一転、ニカーッというちぎスマイルになる瞬間がとても楽しい。

『不思議の国のアリス』のチェシャ猫のように、そんな笑いだけを残して、「ここではないどこか」へ消えていく。

本舞台では、杢兵衛さん(名取伶)も、遠くから二人に笑顔で手を振っている。その姿がとても愛らしく、フランキー堺さんが見送っているように見えたのは…、たぶんわたしが感傷的になっていたのだと思う。

なんて素晴らしいラストシーン。そして、気持ちのいい作品。本当に、いろんな要素が重なって完成した、サヨナラの快作だと思う。ちぎちゃんだったからできた作品だと、心からそう思います。

二人の行く先には、どんなことが待っているんでしょうね。卒業おめでとうございます。

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