無題

SNS時代の勇者/大森靖子『ミッドナイト清純異性交遊』論:この歌詞がすごい!1曲目

(初出:旧ブログ2018/01/09)

 大森靖子を初めて見たのはいつだったであろうか。「ナース服時代の椎名林檎のようなミュージシャンがいる」と、何となく話題になっているのを見て(もっとも大森自身は、安易に先人に例える音楽業界の風潮を良しとしていないようであるが)東京事変の大ファンである自分はyoutubeで聴き始めた(しばらく”オオモリヤスコ”だと思っていた)。ショッキングピンクの似合う、女性的な視点を前面に出した彼女のスタイルをスッと聴くのには時間がかかったが、『ミッドナイト清純異性交遊』という曲は大好きになった。「これから自分の後輩は”『ミッドナイト清純異性交遊』世代”だ」という、強烈な印象も一緒に受けた。今回はどこに「世代交代」という印象を受けたか、歌詞を紐解いてみる。

<アンダーグラウンドから 君の指まで 
遠くはないのさiPhoneのあかりをのこして 
ワンルームファンタジー>

 もう冒頭のこの1連だけで、既に「詩」として完成しているような気さえする。iphone片手に、真夜中、布団という狭い空間にこもり、自室がその明かりがだけの状態になっているのだろう。暗闇の中に一筋の光が浮かぶ美しい情景が浮かぶ。自分の世代が<14歳>のころには無かったiphoneだが、布団の中でイヤホンで音楽を聴いたり、文庫本を読みふけって夜を明かした経験は、サブカル的思考を持って10代を過ごした人間には、媒体は異なれど誰にでもある体験だろう。
 この連は<何を食べたとか 街の匂いとか 全部教えて>という詞に続く。SNSの普及、AKBらの握手会イベント等により、アーティストとの距離がぐっと近くなった。些細な一挙手一投足の報告でもファンは嬉しい。反対に<君の気持ちはSNS ときに顔文字なくてSOS>と、ネガティブな部分にも敏感になる。
 この近さは<不評なエンディングでも好きだから守ってあげるよ>にも繋がる。距離が近く、「個人的」なメディアの発達は、それだけ批評にも間近になり、時に自分の姿勢と対照的な流れともバッティングすることがある。そして「個人的」だからこそ、<守ってあげる>という疑似的な恋人・友人のように捉えた、受け手側も「個人的」な反応になる。
 そして<発売延期でぼくだけのキラーチューン>。これまでの音楽シーンでも、ライブで先に披露し、その後ソフト化ということは多々あった。しかし震災による自粛やコンプライアンス重視による昨今、リリース前に発売延期や内容の変更はこれまで以上に意識が強くなったように思う。更にyou tubやTwitter等「足が速く」、かつ「個人的」なメディアの発達で<ぼくだけの>という感覚もより強くなるだろう。


 スマートフォンという自分の世代ではそこまで普及していなかった媒体を10代前半から当たり前に使いこなすようになり、良い面も悪い面も距離の近くなった憧れの存在に指先一つで触れていく。そうした「スマホ第一世代」の共通体験になるであろうサブカルの原風景が、『ミッドナイト清純異性交遊』には広がっている。
 そしてこれは世代がどうのこうのではなく、これからも紡いでいってほしいことであるが、自らが傷付き、痛み、病み、落ち込んだ体験を、そのまま歌詞に昇華するアーティストが音楽の世界に居続けてほしい。”メンヘラ”という言葉に集約されがちだが、大森靖子はもちろん、中島みゆき、戸川純、YUKI、椎名林檎、そしてシバノソウ(原宿駅前で路上ライブをしていたころ、よくこの曲をカバーしており、”フェスボルタの大森靖子”と形容する者もそこそこ見かけた。彼女は好意を寄せていた男性に「シバノはメンヘラだから」と言われ、傷付いたことを度々自嘲的に話している)、それぞれにそれぞれの苦悩があり、挫折があり、他の誰かと同じではない晴れない感情を歌っている。自分の傷をさらけ出す尊い勇気を持った歌手が、表現に昇華することもままならなず、より心の奥にモヤを抱え続けている聴き手の代弁者として、<ブルーな気持ちを食べて>くれる存在であり続けてほしいと切に願う。

#音楽 #歌詞 #大森靖子

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