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J-ROCK版、逆”粗忽長屋”・ゲスの極み乙女。『私以外私じゃないの』論:この歌詞がすごい!3曲目

(初出:旧ブログ2019/02/11)

 『粗忽長屋』という古典落語がある。行き倒れになっている身元不明の死体を見た八五郎は弟分である熊五郎だと断言する。しかし話を聞いてみるとどうも人違いらしい。というのも死体は昨晩から行き倒れになっているのに対して、八五郎は「今朝は元気だったのに」と語る。粗忽者の八五郎は聞く耳も持たずに「じゃあ本人を連れて確認させよう」(!)と熊五郎を連れてくる。八五郎に負けず劣らず粗忽者の熊五郎は死体を見て自分が死んだと「確信」してしまう。悲しみにくれる熊五郎は「自ら」の死体を抱え、悲嘆に暮れながら、「抱かれているのは確かに俺だが、一体俺は誰なんだ」と自問自答する。

 『私以外私じゃないの』は<私>を表題でも2回、歌詞全体では実に16回<私>が登場する。この「反復」はこの曲を語るうえで非常に重要なテーマである。<私>以外にも<今日>が4回、<明日>が3回登場し、<夜を重ねて>、<今日も重ねた>、<期待する度 何度も>、<何回も瞬き>と「反復」、「積み重ね」が主題である。また<泣いちゃった>、<鏡台>、<映る>、<瞬き>、<目を瞑った>と1連目に「視覚的」イメージを呼び起こさせる単語が連続している。この2つを整合すると、<私>は<今日>(=これまでの、現在の)の<私>と、<明日>(=これから、未来の)の<私>をシンメトリーにずっと見つめあっている状態ということになる。鏡を見るように、<私>を見ている(あるいは見られている)<私>、そのどちらも<私>なのである。そして粗忽すぎて自己を喪失した『粗忽長屋』に対して「<私>を見ているのも、見られているのも、どっちも<私>だし、他ならぬ<私>、<以外私じゃないの>」と他人には介入させないという、強固なアイデンティティを持っている。

 歌詞は進んでいくうちに<悪くないかもよ>、<誰も替われない>など、ポジティブな光がどんどん差し込んでいくのがわかる。最終的に<夜明け過ぎを待つ>と、闇が明ける。ダークな部分の終焉を待てるほど元気になる。しつこく取り込んだ「視覚的」イメージも<瞬き>、<瞑った>、「目」を<見開いた>。そして<私>は<背を向けて 言い合った>と<私>同士が見つめあうのを終了させ、<もう怖くない>とポジティブな結論に終結する。なにかの失敗や上手くいかないことでもネガティブなものを抱えていた者に対しての応援歌としての側面を持ち合わせている曲であることがわかる。<私以外私じゃないの>というキャッチ―なフレーズ、<私>同士が見つめあうといSF風ファンタジー、そして心が晴れる結論が出るというすがすがしさ。これらが絶妙に重なり合って10年代を代表する稀代の名曲が生まれたのだろう。

#音楽 #歌詞 #ゲスの極み乙女

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