自己紹介1

はじめまして、深山静と申します。

地元和歌山を中心に、2016年12月に自助サークル「心燈 - cocotto -(ここっと)」を立ち上げました。

「心燈 - cocotto -」では、生き辛さを感じている人やその支援者(家族、友人など)の、普段心に溜め込みがちな思いを「言葉」を使って表現するお手伝いをします。

日記、小説、エッセイ、川柳、俳句、短歌、詩……その表現方法は様々です。

まだわたしひとりだけの活動ですし、実績もありませんが、地元を中心に「言葉の持つ力」を広げていければいいなと思っています。


これまでnoteでは短歌と川柳の拙い作品を上げていましたが、ここ最近思うところあって、改めて自分の半生を振り返ってみることにしました。

noteでは色んな職業、境遇、考え方の記事が載っていて面白いなと思ったので、それに触発された部分もあります。





まずは初回、自己紹介から。

といっても、自己紹介そのものがわたしの半生を述べることになるのですが、何回かに分けて書いていくことにします。


わたしは現在、関西の田舎で市役所職員として勤務しています。

公務員になる前は塾講師、テレアポ、家庭教師をしていました。

今回は公務員になるまでの経緯を記事にまとめようと思います。


わたしが公務員になったきっかけは、祖母が亡くなり、それまでのライフスタイルが大きく変化したことでした。

わたしは二歳のときに実母と死別しました。

実母との記憶はありません。

遺されたわずかな写真や実母を知る人たちからの思い出話でしか想像するくらいです。


実母が亡くなった頃は、まだ児童扶養手当の支給対象に父子家庭はなく、父は少しでもお金を稼ごうと夜勤勤務を増やすことになりました。

わたしの面倒は父方、母方ともに親戚が見てくれましたが、その生活を続けていくわけにもいかず、父方の祖母が我が家に来て、わたしの面倒を見てくれるようになりました。

七十を過ぎてからの第二の子育てでした。

母親がいないことでそれなりにわたしも寂しい思いをしたり、偏屈な考え方を抱くようになったりもするのですが、それはまたおいおい語ることにします。


わたしは県外の(地方をまたいで)大学に進学し、その頃から祖母は祖母の実家とわたしの家を行き来するようになりました。

デイサービスに通い、祖母の少なくなった友人たちと故郷で語らい、子や孫たちと食事に出かけたり、わたしが大学で地元を離れている数年間はわりと穏やかな生活を送っていたと思います。


大学卒業後、わたしは公務員試験に失敗していたので地元に戻り、塾講師のアルバイトをすることになります。

教育の面白さに目覚め、また正規の仕事につかなければと考えて、別の塾に正社員として働き始めました。

勤務地が実家から遠かったこともあり、数年ぶりのひとり暮らしを始めるのですが、この頃、祖母は認知症を発症し、少しずつ、本当に少しずつ惚け始めました。

半年も経たないうちに、わたしは会社の都合で実家からも通える校舎に勤務することになり、再び祖母との同居を始めます。

年老いて、何かがおかしくなり始めていた祖母に気付くまでそう時間はかかりませんでした。


わたしは私立中学、公私高校の受験という、ほぼすべての学年の教科を担当(フォロー)することになり、正午頃から深夜まで毎日働いていました。

それなりに仕事は充実していて、どう考えてもブラック企業(そもそも教育業界はブラックですが)でしたが、子どもたちと一緒に勉強するだけでなく、保護者とのコミュニケーションもわたしには合っていました。

悩んだり、泣いたり、怒ったりしたことは数え切れません。

ですが、それを「やりがい」と思うくらいに、楽しさや面白さがあることは事実です。


ただ、その楽しい仕事の一方で、終電で帰る我が家は憂鬱でした。

午後十時を過ぎた頃からわたしの携帯にはおびただしい着信が入ります。

「自宅」の二文字は画面を覆いつくしていました。

祖母にとってわたしは「高校生」であり、「夜遅くまで遊び回っている悪い子」になっていました。

高校生当時のわたしは門限六時をきっちり守り、夜家を抜け出して遊びに出ることをしたことはありません。

最初の頃こそ何かあったのではないかと電話に出ましたが、「いつになったら帰って来るんや」「今何時やと思ってるんや」と厳しい声でまくしたてられ、挙句「おばあちゃんの言うことは聞けやんのか」「なんでそんなにおばあちゃんをいじめるんや」と泣き出す始末です。

わたしは電話に出なくなり、不在着信が延々と履歴に残るようになったのです。


またそのうちに家の中のあちこちからも違和感に気付くようになりました。

例えば冷蔵庫や炊飯器の中身の減りが早いとか、物の置き場所が変わっているとか、「あれ?」と思うことから始まり、常備薬が極端に減っていると分かったときには祖母の認知症は現実として我が家に重くのしかかりました。

不在着信の嵐はまだ止まず、デイサービスを休みがちになった祖母は、排泄をうまくコントロールするこができなくなり、ほぼ毎日失禁するようになりました。

汚れた下着を恥じた祖母は自分でこっそり洗うようなこともしていましたが、その内にタンスにそっとしまうようになります。

それを毎晩仕事から帰ってきて探し出し、洗濯機にかけるのがわたしの日課になりました。


通っていたデイサービスのケアマネージャーや父とも相談し、おむつをすることになりましたが、「おむつ」を認識できない祖母は洗濯機にかけ、吸水ポリマーが洗濯機の内部で詰まらせ、洗濯機を買い替えることになりました。

未だにわたしの心にしこりとなって残っているのが、「おむつは洗濯機にかけやんといてって何回言ったら分かるん?」と怒ったことです。

祖母にとっては自分が「おむつ」をしなければならないことを、無意識のうちに拒否していたのでしょう。

あのときの祖母の何とも言えない悲しそうな、それでいて情けないような、恥ずかしそうな表情を忘れることはできません。

悔やんでも悔やみきれない過去です。


現実逃避をするようにわたしは仕事に打ち込みました。

子どもたちやその保護者と接する時間は、わたしがわたしらしくいられる時間であり、また祖母と過ごす鬱屈とした時間を忘れさせてくれる息抜きでした。

祖母のことを見捨てようと思えばできたかもしれません。

ひとり暮らしをするだけの給与はもらえていましたし、職場の近くにアパートを借りた方が体力的にも楽だったと思います。


それを実行に移せなかったのは、祖母がわたしをずっと大事にしてくれたこと、毎夜の鬱屈の中でも祖母の見せるあどけなくなった笑顔があったからです。

父ひとりに世話を押し付けることもできませんでした。

親戚たちも自分たちのできる範囲でと手伝ってくれることもあったので、わたしひとりが楽になるというのはできないと思いました。


結局、仕事と祖母の世話の両立は長く続けることができませんでした。

わたしは仕事を辞めて、昼間の仕事に切り替えて祖母との夜の時間を過ごすことに決めました。

しかし一年も経たぬうちに祖母は脳梗塞を起こして緊急搬送され、それ以降我が家にも、祖母の実家にも戻ることはありませんでした。

半年以上祖母は入院生活を余儀なくされ、日に日に何もできなくなっていきました。

昔話や昨日見た夢の話を話してくれるうちはよかったです。

最後のほうは「ああ」や「うう」などとしか声を発せなくなり、点滴や流動食によって真っ白だった髪の根元は黒く戻り、一日中寝て過ごすこともあり、わたしは祖母が少しずつ「死」に近付いていくことを見ているしかできませんでした。


年を越して数日が経った頃、父と見舞いに行き、洗濯物を引き取り家に戻ってきたとき、入れ違いで祖母を見舞っていた伯母から連絡が入りました。

「たった今おばあちゃん死んだん」

突然の吐血で、その血が器官に詰まっていたようで、伯母が祖母の元を訪れたときには既に処置のしようもなく、真っ赤に染まったシーツの中で祖母は亡くなっていたようです。

病院は我が家から車で五分とかからぬ場所にあり、大急ぎで駆けつけました。

まだ祖母は温かく、揺さぶって起こせば目を開けてくれそうでした。

ですがもう祖母は二度と目を開けませんでした。

数時間前に病室を訪れていたとき、どうして眠っているから無理に起こすのはやめようと思ったのか、なぜ起こして声をかけなかったのか、次から次へと後悔が溢れ、また涙も止まりませんでした。


通夜と告別式と法事と、慌ただしく後処理が行われていく中、完全に祖母がいなくなってしまった家でわたしは今後のことを考えることになりました。

ちょうど市の広報に職員採用試験の概要が載っており、わたしはひとりでも生きていけるように安定した職に就こうと、採用試験を受けようと決めました。

夏に筆記試験、秋に面接試験を受け、冬に採用が決まりました。

翌年の春から公務員として働き始め、現在四年目になります。

しかしその四年目を迎える間も、わたしには大小さまざまな波がありました。

それもまた今後記事としてまとめていこうと思います。





さて、何だか暗い内容の、それも何が言いたかったのかよく分からない記事になりましたが、今後もこんなスタンスで書いていこうと思います。

あくまでわたしが自分のこれまでを振り返るツールとして、場所として、noteに記していくつもりです。


次回もまた自己紹介の続きになりますが、よろしくお願いいたします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?