以前私が考えていたこと

以下は、私(1963年生まれ)が、15歳から25歳くらいまで考えていたことを思い出しながら、当時の自分になり切って、当時の自分が何を考えていたかを整理する目的で、2008年頃に、自分用のメモとして書いた文章である(固人名の一部はイニシアルに変えた)。
当時(15歳から25歳くらいまで)の自分は、どんな人も、その人生の一切合財がその人にとってたまたまだと考えていて、故に、人に対する(肯定的・否定的)評価ができなくなると思い込み、そのことに苦しんでいた。
(主として哲学者の山口尚先生にお見せする目的でアップしますが、ほかの人でも興味のある方はお読みください。)
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あの頃の私へ

0.今俺は高2。夏休みだ。空しい。強烈に空しい。誰か助けて。

1.あれは2年前、中3の夏休みだった。俺はふと気付いた。同級生でいじめっ子のKも、勉強が出来ず、いつもおどおどしているTも、優等生で威張っているUも、結果はいまひとつだけど努力家でいつも先生にほめられるSさんも、運動神経抜群で筋肉マンのOも、よく考えてみれば、みなたまたま「そう」なんだって。「そう」って、つまりその人の性質の全部。誰もそのようになろうと思ってそうなったんじゃない。だって、Kのように生まれて、Kのように育てば、Kになるでしょ。たまたまOのように生まれて、たまたまOのように育てば、Oになるでしょ。それがKであり、Oなんだから。
  いやもちろんOは、俺はこの体になろうと思って、そのために鍛えたからこうなった、って言うよ。でも、そうなろうと思った時点まで戻って「なぜそうなろうと思ったのか」を考えれば、「そうなろうと思ったこと」には理由があって、その理由にまでさかのぼって・・を繰り返せば、結局、「生まれつき」か「自分ではどうしようもなかった小さいときの環境」にまで行き着くのだから、結局たまたまとしか言いようがない。
  だとすると、俺は今まで、色々なことがその人の責任だと、少なくとも一部はその人の責任だと思ってきたけど、根本的に間違っていた。その人の責任なんて何もない。優等生のUも、Uが偉いんじゃなくて、たまたまそう生まれてきただけ。Uは、「いや俺は努力してそうなった」って言うかもしれないけど、努力しようと思ったその時点までさかのぼってみれば、努力しようと思ったこと自体がたまたま。たまたま努力家に生まれついたのか、たまたまそのような環境にあったのかは知らないけれど、いずれにしてもたまたま。たまたまそのように生まれて、たまたまそのように育つ環境にあって、そのようになった。そういう意味じゃみんな同じ。劣等生のTもそのように生まれようと思ったわけじゃなく、たまたまそのように生まれて、あるいはたまたま劣悪な環境で育って、いずれにしてもたまたまそうなった。いじめっ子で、いつも先生に怒られているKも、Kが悪いんじゃない。Kだってそのように生まれようと思ったわけじゃない。だって、誰だって、もって生まれた性質なんて選べないでしょ。たまたまそのように生まれただけ。そして環境だって選べないでしょ。もちろん、ある一定年齢になれば、例えばあえて家を出たり、あえて厳しい環境に飛び込んだり、あるいは先のOみたいに自分で努力したりって、自分で環境を選んだり、自分で自分の環境や自分自身を操作したりする。それはわかってる。でも、例えばOが、15歳であえて家を出て、寮で暮らす苦労を選んで、それはきっといろいろな人から褒められて、当人の性質をより改善する働きをして、当人としては、「俺は、他の人間とは違い、あえて、自分で、自分の意思で、家を出て、苦労を買って出て、自分を鍛え上げた」的認識になるのだろうけど、そうじゃなくて、たまたまそのように生まれて、たまたまの環境でそのように育っただけ。そして、そう生まれた人間がそう育ったから、そう思ったということ。全てはたまたま。それを自分の意思のように錯覚しているだけ。
  結局、みんな「○○がすごい」「○○は偉い」「○○は人間のくず」「○○は障害を持っているからしょうがないけど、でも同じ障害をもっている人の中でも××みたいな立派な人もいるのだから、少なくとも一部は本人の責任」みたいなこと言うけど、みんなデタラメ。全部たまたまじゃん。同じ障害を持ってるABがいて、Aは世を拗ねて全く無気力な人間になり、Bは努力して這い上がったとして、それはBがたまたまそういう性質だったからであって、たまたまそのような性質に生まれついたからであって、何も偉くない。「障害を持って生まれたことは、全く本人のあずかり知らぬことで、それは本人の責任じゃない」というのであれば、と同時に、もって生まれた諸性質全てが本人の責任でないのは論理の必然で、だからその諸性質のひとつである「努力する性質」だけをとりだして、それだけはたまたまじゃない、というように言うのははなはだしい矛盾。

2.驚いたことに大人はこの事実に気づいていない。
  あれは去年だったか、恐る恐る親に言ってみた。俺のこの考えを必死で説明した。でも全く理解されない。私はそう思わない、などと笑っていなされただけ。思う思わないの問題ではなく、事実か事実でないかの問題なのに。そしてこれは端的な事実なのに。

3.こんな重大なことに、世の中で俺だけが気づいている、などという事態が通常あるはずがない。何か俺が重大な勘違いをしているに違いない。よし、もう一度最初から順を追って、論理的に考えてみよう。どこかに穴があるはずだ。
① まず、生まれるとき。人は色々な性質を持って生まれてくる。ただ、誰もそれを選べない。男に生まれたくて生まれるわけじゃないし、日本人に生まれたくて生まれたわけでもないし、美人に生まれたくて生まれたわけでもないし、障害者に生まれたくて生まれたわけでもない、この時代に生まれたくて生まれてくるわけじゃない。そもそも生まれたくて生まれたわけじゃない。全くのたまたま。うん、ここまでは論理に穴がない。間違いないよね。
② 次に、その生まれた子が育つ環境。「生まれつき」と「環境」で、その人の諸性質が決まることは間違いない。うん、間違いない。ということは次は環境だよね。で、環境だけど、まず、少なくとも、生まれてから自意識が発生するまでの数年間、ごく小さい時期の数年間の環境が当人に選べないことは間違いない。本人赤ん坊なんだから選べない。これは間違いないよね。お金持ちの家に生まれるのか貧乏人の家に生まれるのか。まともな親なのかとんでもない親なのか、誰も選べない。だから、その人がごく小さいときの環境は、その人にとってたまたまとしか言いようがない。これも疑えない事実だよね。うん、ここまで間違いない。
③ 次に、例えば5歳でその人に自我が目覚めて、自分で少しずつ自分の育つ環境を変えていくとか、努力をしはじめると仮定しよう。別に5歳でなくても良いのだけど、いずれかの時点で、「自分で」何かをしだす時期が来ることは間違いない。例えば友達を選ぶ、とか。もう少し大きくなると、遊ぶことも出来る時間にあえて勉強をするとか。その逆とか。何でも良いけど、その人が「自分で」いろいろなことをするようになる。それによって、その人自身の諸性質が変わっていく。これも確かに間違いない事実だ。でもちょっと待って。例えば5歳で最初に「自分で」したことが、例えば「外に冒険に行く」だったとして(例えば、それがその子が将来冒険家になる最初の一歩だったとして)、その子がその時点で、冒険などしない子が多数の中で、その年齢で最初の冒険をしたのはなぜか。なぜかを明確に言葉ではいえないけど、それが、その子の「生まれつき」か、自分で選べなかった「小さいときの環境」か、どちらかに原因があることは間違いないよね。だって、その割合はともかくにしても、「『生まれつき』と『環境』で、その人の諸性質が決まる」ことは間違いないのだから。ところで、①②から、どちらも、その子にとってたまたまなわけで、だから、結局、その子は「自分の意思で」冒険をしたように見えるかもしれないけど、それも、①②に規定された必然、というか、その子にとってたまたまなんだよね。これも間違いない。
④ だとすると、その子の(その人の)今の諸性質って、結局、
① たまたまの生まれつきと
② たまたまの小さいときの環境と
③ ①②に規定された「最初に自分の意思でした行動」と
④ ①②③に規定された「2番目に自分の意思でした行動」と
⑤ ①②③④に規定された「3番目に自分の意思でした行動」と
・・・・・・・
によって規定されていることになり、結局全部たまたま。

  おかしい。どう考えたって、何回考えたって、どこにも論理の穴がない。やっぱり、世界中のどこの誰だって、結局たまたまそうなっているとしか言いようがない。

4.それがどうしたって?どうしたもこうしたも、もし本当に上記を認めるのなら、大変なことになってしまう。
  例えば、よくみんなあの人偉いねとか言うけど、たまたまなんだって。だから全然偉くない。例えば、この間テレビで言ってたけど、芸能人Aが、母親の介護を献身的にしてくれた妻に毎日感謝の言葉を忘れなかったって。Aって偉いなって、みんな思うかもしれないけど、違うんだって。たまたまそのような性質に生まれたからなのか、たまたまそのように育ったのか、いずれにしてもたまたまなんだって。同じ境遇にあっても妻に労いの言葉ひとつかけない人との違いは、たまたまの生れの違いか、たまたまの育ちの違いでしかない。
  逆に犯罪者だってそう。たまたま犯罪性向を持って生まれるか、あるいは劣悪な環境に育つか。いずれにしてもたまたま犯罪者と呼ばれる人になっただけ。確かに、犯罪者については、社会も、その環境については時々云々する。しかし、「同じような環境に育っても、犯罪者にならず、むしろ逆境をばねとする人もいるのだから、環境のせいにしてはいけない」みたいな説教が、必ずつく。それが余計。というか何もわかっていない。だって、本当に「全く」同じ環境に育ったにもかかわらず、結果としての行動が違ったのだとしたら、その原因は生まれつきの性質(意思の強弱とか、努力家か否かとか)以外にはない、ということだよね。生まれつきの性質ほど、その人が選べなかったことが明白なものはないでしょう。そいつにどうしろというのだろう?
  と、こう考えてくると、結局、世の中の物事に価値なんてないんだよね。えらい、といわれている人もえらくなんか全くない。たまたまそう生まれついたかそう育ったか。いずれにしてもたまたま。悪い、だめだ、と語られる人も、たまたまそう生まれついたかそう育ったか。いずれにしてもたまたま。本人の責任も少しはある、ということではなくて、明白に、完全に論理的に、100%、本人の責任なるものはない。全くのたまたま。そうじゃない、という人は、俺の上の①~④(「たまたま論」)を論破して欲しい。絶対に論破できない。一分の隙もない。
  でも本当は、一番の問題は、一番恐ろしいことは、この自分も、そのたまたまに支配されている全人類の一例にすぎない、ということだ。俺、中学まではそう思っていなかった。自分の行動は、もちろん色々な回りの広い意味の環境もあるけれど、最終的には自分で決めていると、普通に、自然に、誰でもが思うように、思っていた。だからこそ、例えば人に負けないために試験勉強をする、とか、なにかこう、人と交わるとか、上手くいえないけど、色々な積極的な行動が、他の人と同様、「普通に」「自然に」「主体的に」できた。でも今全くそれが出来なくなってしまった。何かを、「普通に」「自然に」「主体的に」行うことが全くできなくなってしまった。なぜなら、何かをなそうとすると、同時に、もう一人の自分が、たまたま論を自分に適用してしまうからだ。たまたま論を自分に適用するとどうなるか。
  例えば教科書を開いて勉強しようとすると、脳内の俺が、俺にささやく。仮に勉強をして良い成績を取ったとしても、それは良いことでも悪いことでもなく、要するにたまたまの出来事なのだ、と。もうむなしくて何も出来なくなってしまう。今や四六時中このような状態だ。何をしても、何を聞いても、少し前までなら感動していたようなことも、義憤に駆られていたようなことも、すべて、そう感じられなくなってしまった。自然に感じられない、というよりも、なんていうんだろう、体は感じたがっているのに、たまたま論がストッパーとなって、感じられない、というような感じ。だって、理屈がそうなんだもの。理屈に合わない感情が生じたとき、「本当はそうじゃない。一見そう感じられるけれど、実は理屈上おかしいのだ。」って思えてしまう。

5.これじゃまだわかってもらえないよね。
  結局誰だって、何らかの行動をとったり、他人に対して何らかの価値判断をするときは、ある物語(○○は○○だから、○○の行動をとった、とか、××は、××だけれども、あえて、××の道を選んだ、とか。)を、自然に、普通に、描いていると思うんだよね。だけど全部間違ってる。全部たまたまなんだって。
  具体的には・・
① 他人に対する評価(1)
  例えばこの間、先生が、「嶋田は本当に偉い。だって、母子家庭で、貧しく、不良になってもおかしくない環境にいるのに、勉強にまじめに取り組み、好成績を維持している」云々と言って、皆、それに共感していたようだが、俺はどうしても偉いと思えない。だって、じゃあ、同じ劣悪な環境に育って、嶋田のようになるのと、そうならずに不良になったBがいるとして、その違いって、結局生まれつきなわけじゃん。生まれつきの性質が違ったから、全く同じ環境に育っても違う行動をとるわけでしょ?で、その生まれつきって、何回も言うけど、本人じゃ全く選べないわけでしょ?嶋田はそのように生まれついたからそのように行動しているだけであって、それが社会的・あるいは生物学的に見て希少性のある行動だとしても、嶋田にしてみれば、そう行動せざるを得ないからしているだけのこと。嶋田にとってはそれが当たり前。と言うかそれ以外に行動できない。必然。それはちょうどBが不良にならざるを得なかったのと同じこと。要するにたまたま。それなのになんで一方だけを偉いなどと思える?要はたまたまそういう人だった、ってだけじゃん。
  逆に言えば、嶋田を偉いと思い、Bに対してはそれじゃだめだと思う人って、いやそれは俺以外の全員だと思うけど、こう考えているんだよね。嶋田君は、通常ならば、劣悪な環境に負けて、周りの不良と一緒になって不良行為をしたりするところ、いやそれじゃいかんと思い、ぐっと踏みとどまって、自分の欲望に打ち勝って、勉強に励んでいる。でも、「それじゃいかんと思」うのも、「ぐっと踏みとどま」るのも、「自分の欲望に打ち勝っ」たのも、要はそういう人だったからなんだよね。で、「そういう人」と「そういう人じゃない人」の違いって、要は生まれつきか育ちか、でしょ。ってことは、3項の理屈で、要はたまたまとしか言いようがない。
② 他人に対する評価(2)
  例えばこんなこともあった。ニュースでやってたんだけど、先日、駅で線路に落ちた盲人を助けた人がいて、その人が列車に轢かれて亡くなった。皆、勇気ある人としてこの人を誉めそやした。でも俺には全くそう思えなかった。確かに勇気はあったのだろう。でも勇気のない人とどこが違う?勇気のある人はたまたま勇気があったんだよ。たまたまの生まれつきなのか、たまたまそのように育ったのか。自己を律してそのような性格に自らを鍛えたのだとしても、なぜそのようなことをしようと思ったのか、なぜそのようなことが出来たのか、まで考えれば、結局、たまたまそのような人だったから、としか言いようがない。たまたまそのような性格になったのであれば、たまたまそうならなかった人と全く一緒なわけで、全然偉くない。結局世の中に偉い人なんていない。どんなに偉いように見える人も、結局たまたまそうなっただけじゃん。
③ 他人に対する評価(3)
  逆に犯罪者だってそう。この間、新聞に、台湾人の留学生が、日本で殺人事件を起こした事件のルポが載っていたけど、そのルポによれば、その留学生はものすごく貧しくて、そこを日本の犯罪組織につけ込まれて、殺人事件に至ったらしい。その経緯が、多分に同情的な筆致で書かれていた。でも、俺には全く理解できなかった。と言うか絶対間違っていると思った。何で全く同じ態様の殺人事件を起こしても、貧しくて、どうしようもない状況の中で事件を起こした人と、例えば生まれつき金持ちで、甘やかされて育って、それゆえにスポイルされて、犯罪者になってしまった人と、なぜ前者の方が同情されて、罪も軽くなるのか。要はたまたまじゃん。前者には、好きで貧乏に生まれたわけじゃない、好きで犯罪者になったわけじゃない、みたいなことが言われる。でも、後者も全く同じでしょ。好きで金持ちに生まれたわけじゃない、好きでスポイルされたわけじゃない。要はどちらもどうしようもなかったとしか言いようがない。
  どうしようもなかったに関連して、こういうケース(前者)でよく言われるのが、同じような貧しい環境に育っても、全員が犯罪者になるわけじゃない、それでも耐えて、立派な人になる人もいるんだから、やはり自分の責任は大きいのだ、みたいな言い方。これも全く、100%、間違っている。じゃ、犯罪者になったAと、全く同じ環境に育って立派な人になったBと、どこが違ったの?「全く同じ環境」なんだから、違った結果になったとしたら、その違いの原因は生まれつきしかありえないじゃん。でも、生まれつきって選べる?選べるわけないじゃん。(余談だけど、もし選べるんなら、誰だって、生まれつき意志の弱い人間より、意志の強いほうを選ぶよね。Aの方がむしろ同情されるべきでは?善人なおもて往生をとぐ・・はそういう意味でしょ。たまたま論の立場からすればいずれも間違っているけど。)なんでそれが自分の責任になるの?「自分の責任」っていう人は、多分、「ここで道が二股に分かれる」みたいな瞬間を想定して、そこで悪の道に行かず、あえて、厳しい試練が待っているけれど、正しい道を行く、そういう選択肢もあったわけで、そちらを選ばずに、安易な悪の道を選んだのはその本人なのだから、やはり本人の責任なのだ、みたいな感覚で言っていると思う。でもそれは違う。Aの道を選ぶのかBの道を選ぶのか、なぜAはAの道を選び、BはBの道を選んだのか。それは結局、その瞬間、そういう性質だったから、としか言いようがない。ではなぜその瞬間AはAという性質で、BはBという性質だったのか。それはそのように生れついたか、そのように育ったか、あるいは自分で自分をそのように育てたのだとしても、その育てた自分が、なぜ「そう育てるようになったのか」まで考えれば、結局その本人にはどうしようもなかった、どうしようもないところで決まってしまっていた、としか言いようがない。だから、結局、その分岐の瞬間に、Aを選んだのも、Bを選んだのも、たまたまとしか言いようがないんだって。立派な方のAの道を選んだ人は、後になってそのことが誇らしいから、ついつい物語化して、「俺はその瞬間、あえて、茨の道を選んだのだ」みたいに自分自身思い込み、そう語る(歌の「マイ・ウェイ」のように)けど、結局その瞬間そちらを選んだのは、たまたまとしか言いようがないんだって。
④ ある思考実験
  3項の理屈は、事実なんだけど、少し回りくどい。特に、③④の自分で自分の環境を変えるくだりが、ある種の人には、「そこにこそ、その人独特の、単なるたまたまではない、自己責任を問いうる要素がある」みたいに思えてしまうらしい。これは全くの誤解なんだけど、じゃ、その誤解を無くすために、こういう思考実験をやってみよう。
  ある星では、人は、大人に生まれる。生まれたときから大人だ。そして、生まれた瞬間の諸性質を死ぬまで全く変えずに生き、その性質のまま死ぬ。環境の影響を受けて変わったりしない。そのような人の間でも、責任の概念は生じるか。
  結局、人(地球人)が、「責任」などという、全くありもしない物語を信じているのは、人が、生まれた瞬間から、周りの環境によって、いろいろに変化し、善人にもなり悪人にもなるから、なんだよね。だから、犯罪者に対し、「お前はそうなったけども、そうならないことも出来た。現にそうならない人もたくさんいる。だからそうなったのはお前の責任だ(お前の内部に原因がある)」と言うわけ。(本当は、全部たまたまなのに。)
  でも、この星では、人は全く性質を変えずに生き、死ぬ。だから俺のたまたま論が、誰にとっても自明なわけ。たまたま悪人に生まれた人は、誰から見ても、たまたまそう生まれただけ、なんだよね。ものすごい人格者で、地球だったら誰からも尊敬されるような人も、この星では、たまたまそう生まれただけ、ということが誰の目にも自明だから、誰からも、尊敬などと言う間違った扱いは受けない。地球人にたとえれば、たまたま遺伝で背が高く生まれた、障害者に生まれた、ということが、それだけでは、犯罪にもならないし、尊敬に値することにもならないのと同じ。もちろんこの星でも、生まれつき犯罪者の人が犯罪を犯せば捕まるけれども、社会防衛のために、病人として捕まるんだよね。地球のように説教されたりもしない。変わりようがないんだから。ただ淡々と、地球で言えば狂犬病の犬が捕まるように捕まえられて、隔離されるだけ。ちょうど地球でも、生まれつき、無能という意味で「悪い」性質を持った知的・身体的障害者が、「でも生まれつきだから、そう生まれたかったわけじゃないから、しょうがないね」と――正しくも――扱われるように。
  問題は、この星も、地球も、本当は全く同じっていうこと。ただ、地球では、3項の③④が目くらましの役割を果たしていて、本質を覆い隠していていて、この星では全てが「たまたま」であることが誰の目にも明らかなのに、地球では、まるで「たまたま」でないことがありうるかのような錯覚(生れつきを努力で克服できるのだ、みたいな錯覚。努力する性質だって生まれつきなのに。生まれつきでないとしても、その人本人にはどうしようもないことなのに。)が生じてしまうだけ。

6 たまたま論は自分にも当てはまる
  俺は、例えばこの間握力が女子も含めてクラスで一番低かったけど、持久走がクラスで2番目に遅かったけど、100メートル走が女子も含めてクラスで一番遅かったけど、変な顔をしていることでクラスの女の子に意地悪されたけど、この年で子どもみたいな顔と体だけど、たまたまそう生まれただけなんだからしょうがないじゃん。木村だって、Oだって、山下だって、そうなろうと思って、かっこ良い筋肉質な体で、大人みたいなわけじゃないでしょ。たまたま生まれつきでしょ。もちろん努力すれば、少しは筋肉がつくのかもしれないけど、同じ1の努力をしても、その成果が他人の100分の1しか無いんじゃ、とてもやる気がしない。それでもやる気が出るものすごい努力家がいるかもしれないけど、俺はたまたまそうじゃないんだからしょうがないじゃん。要は全部たまたまじゃん。たまたまこんな体に生まれて、たまたまものすごい努力家でもなくて、だからたまたまこういうふうに、かっこ悪い。くそったれ。河野だって、別に何の努力もしてないのに、握力45キロで、何で俺は女子入れてもクラスで1番下の20キロ。Oとか、握力55キロとか言ってたけど、何で?記録の良い奴は、記録を伸ばそうと思ってますます努力して、そういう奴は努力の成果がすぐ出るからますます嬉しくなって、という好循環。全部たまたまなのに、そういう奴は、自分で勝ち取った自分の性質、って言う物語を強烈に信じているから、すっごい嫌な奴になる。たまたまなのに、たまたまじゃない自分自身の性質って思ってる奴は死ね。努力の成果だとか思ってる奴は死ね。たまたま生まれつき運動神経良かったら誰だって努力するよ。

7.価値観が無くなった
  何か人がしゃべっているだけで、例えばこの間河野が「宮武」って話しかけてきて、それだけで、こいつもたまたまこうなんだ、って、いや別に河野は普通のやつだけど、こいつもたまたま自分で選ばずにこう生まれてきて、たまたま両親がそういう人だったからそういうふうに育てられて、5歳くらいから自分の意思とかってあったんだろうけど、その意思自体がそれまでの全くのたまたまで形成されたものなのだから、その意思自体がたまたまとしか言いようがなく、それが証拠に、例えば5歳の時点でAという意思を持つ子とBという意思を持つ子とあった場合、その違いの原因は生まれつきかそれまでの環境以外にありえないんだから、やっぱり意思自体がたまたまで・・・・って、ずっと思いが溢れてきて、まともに応対が出来なかった。
  もう最近では全く価値観がなくなってきた。どんなにニヒリストぶってる奴も、絶対何かの価値を信じている。どんな相対主義者も、例えばヒットラーに対して、例えばいじめ自殺した子がいたとして、のうのうと生きてるその加害者に対して、いやもっと言えば、自分自身をいじめてる奴に対して、自分を殴った相手に対して、何も感じない、ということはありえない。でも俺は、もちろん感じるんだけど、と同時に、でもこいつもたまたまこうなっただけなんだよな、と感じてしまう。というか、理屈上そう(=たまたま)なんだから、何かを感じるほうがおかしいって、自然な感情にたまたま論のストッパーがかかってしまう。理屈上そうなのに、そうじゃないように感じてしまうのは、自分が間違った考え方に慣らされてきたからだ。たまたまなんだから感じるほうがおかしい。
  逆も強烈で、中学の頃は普通に感じていた偉いっていう感覚が全くわからなくなった。
  例えば、この間テレビでやってた怪我から復活した野球選手の話。要は努力したってことなんだけど、まずは自分の利益のためでしょ。また、努力を継続する才能があったのはたまたまでしょ。努力をする動機があっただけでしょ。どう考えたって偉くない。また、このまえ新聞に載っていた、障害者の話。障害に負けず云々っていう感動話なんだけど、結局すべてたまたまでしょ。じゃ、同じような障害を持って生まれて、全く障害に負けてしまった人がいるとして、その人とこの人の違いって何?結局、そう(努力向きに、あるいは性格が前向きに、等々)生れついたか否かの違いだけじゃん。でもそれってその人にとってはたまたまじゃん。なら、なんで、その一方のみを偉いと思える?一見「偉い」ように見えることも、きちんと分析して考えれば、要は全てたまたまとしか言えないのであって、だから「偉い」って感覚は、きちんと分析できない人、物事をちゃんと見れない人の誤解の上に成り立っているだけなんだよね。
  だから感動も全く無くなった。前は感動したような話やテレビに、でもこの人もたまたまそう生まれた、そう育っただけ、と感じてしまう。というか、なぜ、皆、本当のことをわかってくれないのだろう。
  毎日毎日が空しくて死にそう。しかもこの空しさは誰にも理解されない。頭の良い奴も悪い奴も、俺の話をほんの少しも理解できない。これではいけない。このままでは死んでしまう。そう思うけどどうしようもない。この状態を打破するには、たまたま論を理論的に打ち破るしかないけど、絶対不可能。もし、これからの一生で、このたまたま論を、ごまかしでなく、理論的に打破することが――絶対に、100%無理だけど――もし、もし出来たら、俺は、その後の人生にどんな苦難があったとしても耐えられる。何でも出来る。

8.責任という語の意味がわからない
  責任って、その人のせいっていう意味で使われるけど、その人の諸性質は全てたまたまの産物なんだから、責任なんてありえない。例えば、極端な話、生まれつき人殺しが好きで好きでたまらない人がいたとして、でもその人もそう生まれたくて生まれたわけじゃなくて、たまたまそう生まれただけなんだから、その人のせいじゃないじゃん。正義感の強い人がたまたまそう生まれたのと全く同じ。

9.一番反発を覚えるのは次のような趣旨の文章に接したときだ。
  即ち、「他人の不幸を喜ぶのは、人間の性なのだろうか。(とある種の宿命論を前提に嘆いておいて、)いやしかし、一部の心ある人々は、云々」とか、要するに、人間総体としては宿命的なものに支配されているけれども、個々の人間は、それに抗って生きることが出来る、みたいな文章。他人の不幸を喜ぶのが人間の性なら、それに反発するのも人間の性だろう。問題はそういうことではなく、理屈として、絶対に、どんな人間も、例外なく、たまたまの生を生きている、ということ。付和雷同で、他人の不幸を、心の中でニヤニヤしながら喜んでいる人間もたまたまなら、それに腹の底から反発し、満腔の怒りをもって社会悪を告発する義人も、たまたまそのように生まれたかそのように育っただけという意味では全く一緒。結局人は自分の生をどうしようもない。いやもちろん例えば努力するとか、例えば何かに向けて命を顧みず身を投げ出すとか、どうしようもあるのだけれど、「どうしようと思うか」「なぜそう思ったか」まで立ち帰れば、結局どうしようもないとしか言いようがない。世間的にどうしようもなかった人間が、ふと自分を振り返り、これではいけないと思い返し、刻苦勉励し、ひとかどの人物になったとしても、なぜそう思ったのか、なぜそのとき自分を振り返ったのか、と問うてみれば、結局その時点でたまたまそのような人間であった、としか言いようがないのであり、ではなぜその時点でそのような人間であったのかといえば、そのように生まれた・育った、としか言いようがない。それは、そう思わなかった人と比較すれば明白だ。

10.なぜ勉強しないのか(建前編)
  結局、何をやっても、何を見ても、このようにしか考えられない(だって理屈上絶対そうじゃん!誰が反論したって、絶対俺のほうが勝つ。)中で、将来の自分のために何か努力しようという気は全く起きなくなってしまった。だってそうでしょ。何かに向けて努力するってことは、そこに「自分」がいるってことなんだよね。それが、例えばこの前の中間テストに向けて英語を勉強しようとしたときも、まず考えたことは、こんなことだった。
  「俺は今、○○の方法で勉強をしようとしている。この方法を、俺は、××で知った。この方法を知ったのはたまたまである。仮に俺よりテストの結果が良いやつがいたとして、なぜそいつが俺より良かったかといえば、俺より生まれつきの頭が良かったか、俺より良い勉強方法を知っていたか、俺より努力する才能があって結果として俺より努力をしたか、俺より努力をする必然性があって結果として俺より努力をしたか、のいずれかだ。しかし、この全てがその人にとってたまたまだ。自分の才能を選んで生まれてくるやつはいないから、生まれつきの差ならたまたまだし、その勉強方法を知ったのも、俺がそうだったようにたまたま(そいつがたまたま行っている塾(自分で選んだ塾だったとしても、なぜそこを選んだのか、なぜそこを選ぶ性質になったのか、まで遡ればたまたま)で教わったとか、たまたま目にした本に書いてあったとか・・)、努力が才能だとすれば当然たまたまだし、必死で頑張る理由があったとすると、その理由がたまたまとしか言いようがない。つまり、その人が「そう」であったということは、論理の必然として、たまたまとしか言いようがないのだから、その結果もたまたまとしか言いようがない。」
  勉強だけじゃなく、その行動の結果自分が得するであろうこと一切が出来なくなってしまった。この間、親父の本棚にあった自己啓発書の「マーフィー100の成功法則」って言う本を読んだ。ウソかホントか知らないが、思ったことはかなうみたいなことが書いてあった。仮にホントだとするとこれは大変な成功法則で、俺はたまたま親父の書棚で見つけて知ったから良かったようなものの、世の中この方法を知らない人はたくさんいて、知らないことはその人たちのせいじゃない。たまたま知った方法で人を出し抜くなんて許されない。そう考えると、もうその本を読み続けることが出来なくなった。
  だから、なんて言うんだろう、「自分」が無くなるんだよね。価値が無くなるだけじゃなく、自分が無くなる。「良い」とか「悪い」を感じられなくなっても、自分の損得はあるわけだから、努力は出来そうなものだけど、そうじゃないんだよね。良いとか悪いが感じられなくなると、「自分」が無くなる。逆に言うと、何かに向けて努力が出来るって言うことの基底的前提は、たまたまでない「自分」を感じることが出来ることであり、それは即ち良い悪いを感じられることなんだよね。

10.なぜ勉強しないのか(本音編)
  本当はこんなに冷静に分析できたわけじゃない。
  まず、たまたま論で①何もかもがたまたまとしか思えなくなり、②そのことに共感しあえる人が一人もおらず、強烈な孤独感を余儀なくされ、③すべてたまたまなのだからと、「良い」「悪い」「偉い」などの価値観がなくなり、④強烈な空しさにさらされ、⑤それゆえに慢性的鬱状態になってしまって、まず勉強どころではなくなった。しかし、なんとか、机に向かって教科書を広げると、9項のごとき思いのみが頭を占領し・・・となるのです。

11.一番辛いのは誰にも理解されないこと
  一番辛いのは誰にも理解されないこと。世界の中でこんなこと考えているの俺一人。
  この間、湯川秀樹の本を読んでいたら、湯川が、一定程度の知的レベルにある人なら、たいてい、若い頃の一時期いわゆる宿命論に囚われることがある、自分もそうだった、みたいなことを書いていて、一瞬その「宿命論」とやらが俺のたまたま論のことなのかと思ったが、全くの糠喜びだった。湯川の言う宿命論は、人間も所詮物質で出来ているのだから、物理法則に支配されていて云々、というもので、結局、俺のたまたま論と違い、日常に迫る「直接性」みたいなものがない。まるで他人事だ。だから、日常は日常、宿命論は宿命論で分けて考えることが出来る。がっかりだった。
  強烈に空しい。誰か助けてください。

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