山口尚先生のコメントに対するリプライ

第0.山口先生のリプライ

哲学者の山口尚先生のオンライン講義
【第8回 時間・偶然研究会】山口尚「〈割り切れなさ〉再訪─道徳的運をめぐるネーゲルと古田徹也」

の原稿として書かれた山口先生の2023年3月26日付note記事(「〈割り切れなさ〉再訪――道徳的運をめぐるネーゲルと古田徹也」(以下「講義原稿」))

(*1)
に対し、私は、上記動画のコメント欄に次のコメント(以下「第一リプライ」)を書いた。

(以下、私のコメント)
「彼にたまたま与えられた性格」や「たまたま倨傲な性格を与えられたひと」についての疑問:
「私はたまたま男に生まれた」と他人が言えば、私は、「冗談じゃない。男である人間、「それが」あなたなのだ」と言いたくなる。しかし、自分については「私はたまたま男に生まれた」は真だと思う。
つまり、「その人」と「その人の諸性質」の結びつきがたまたまなのか否かは、初発には(物事の起こりはじめとしては)、
・他人に関しては、「「その人」とは「その人の持つ諸性質の束」「のこと」なのだから(そこに楔を打ち込む隙間はないので)、「その人」と「その人の諸性質」を分離して、その結びつきをたまたまだとかたまたまじゃないとか論ずること自体がおかしい(できない)」と言え、
・自分については、「「その人」が自分であること自体がたまたまなのだから、私と私の諸性質の結びつきは全てたまたまだ」と言える。
そして、自他の区別なく、人間一般について語ろうとすれば、上記2つが両方とも正しいとされて(人にはその両方の側面がある、とされて)、「誰しも「その人」とは「その人の諸性質の束」「のこと」である、という側面と、たまたまその諸性質を持っている、という側面がある」、とされてしまうのではないでしょうか。
つまり、その「たまたま倨傲な性格を与えられたひと」が自分なのか他人なのか(永井均の哲学の用語を借りれば〈私〉なのか〈私〉ではないのか)を抜きにしてこの問題を論ずることはナンセンス且つ不可能なのではないでしょうか。
(そしておそらく、この問題はこの講義全体の議論にも影響を及ぼすのではないでしょうか(たとえば、「私たちが具えるふたつの視点」の源流は「日常的と科学的」や「内的と外的」にあるのではなく、「自と他」の決定的な差異にこそあるのではないでしょうか)。)
(私のコメント終り)

これに対し、山口先生から、2023/4/2のTwitterのツイートで次のご返事を頂きました(「みや竹」は私のTwitterのアカウント名です)。お忙しい中、先生にとっては全く益の無いことに時間を割いていただき、まことにありがとうございます。

(以下、山口先生のリプライ)
・みや竹さんが指摘された問題は、おそらくみや竹さん自身のご関心にかかわるものと見受けられ、何かしら意味のあるもののように思われます。
・他方で、おそらくみや竹さんは、ここでの「たまたま」を(論理的あるいは形而上学的な様相としての)偶然と捉えていると思われますが、それは正確でありません。 ちなみにこれは道徳的運が取り上げられるさいにしばしば生じる勘違いです(これは「たまたま」という語の多義性に起因します)。
・ここでの「たまたま」は「コントロールを超えていること」を意味します。それゆえ、あらゆることが(論理的あるいは形而上学的な様相の意味で)必然的な世界においても、《私が教師をしていること》は私にとってたまたまでありえます(というかおそらくこの場合はじっさいにたまたまです)。
・「たまたま」を偶然性ではなく、一貫して〈自己のコントロールを超えていること〉と捉えると、本発表の道徳的運の問題はピンとくるものになると思います。(了)
(山口先生のリプライ終り)

これに対し、さらなるリプライを上記動画のコメント欄に書こうと思ったのですが、文字数制限があって書ききれなかったので、ここに書くことにいたしました。
以下は、山口先生の上記リプライに対する再度のリプライとなります。

第1.私は「たまたま」の意味を誤解していない

1.私は、2019年7月に、たまたま手にした「現代思想2017年12月臨時増刊号(vol.45-21)」所収の山口先生の論考(「自由意志の不条理 分析哲学的-実存的論考」)を拝読し、強い感銘を受け(「自伝的叙述」を読み、仲間がいた!と思った)、「現代思想」編集部気付で、山口先生宛に本名の宮武徹雄名でファンレターを出したことがある(お手元に届きましたでしょうか)。そこにも詳述したが、私は、15歳のころから10年以上にわたり、まさにこの問題(「コントロールを超えていること」の意味での「たまたま」の問題)と全くの徒手空拳で(これが哲学の問題だとは全く考えなかったからである)格闘した。この問題を「たまたま論」と名づけ、自分ひとりの考えと思い込み、深刻に苦しんだ。当時の私の「人生を賭けた」問題だった。

2.当時これに苦しんだのは、ある人の行為や性質に価値を見出したり、ある人を称賛したり評価したり、逆にある人を責めたり、責任を問うたり、ということを、私が全くできなくなってしまったからだった。また、自分の「考え」や「行動」のいちいちに、強迫的に、「これもたまたま」「それもたまたま」とチェックが入ってしまうために、すべての思考・行動にストッパーがかかってる感覚があった。当時の心境を一言で言えば「苦しい」「空しい」であった。たとえば私は次のように考えていた。
・ヒトラーだってたまたまそう生まれて、たまたまそう育って、ああなっただけじゃないか。誰だってヒトラーに生まれてヒトラーに育てばヒトラーになるだろ。それがあの「ヒトラー」なんだから。そのヒトラーを誰が責められるんだ。
・同級生のUは△△な性質の故に△△な評価を受けているが、たまたまそう生まれ、たまたまそう育っただけじゃないか。逆の評価を受けているSとどう違うんだ?両者ともたまたまそうであるにすぎないのに。
・なんで刑事裁判では同情すべき人だけ減刑されるんだ。何ら同情すべき余地のない人だって、たまたま、どうしようもなく、そこに至ったという点では、全く、100%、同じではないか。
・障害者が「誰も好きで障害者に生まれたわけではない・そうなったわけではない」という理由で同情されるのなら、どんな悪人だって「好きでそう生まれたわけではない・そうなったわけではない」という意味では、全く、100%、同じではないか。
・「あなたと同じ劣悪な環境に育っても道を踏み外さなかった人もいる」だって?ふざけるな!本当に「全く同一の環境」に育って、結果が違うなら、原因はその人にとってたまたまとしか言いようがない「生まれつき」以外にあり得ないではないか。誰が生まれつきの性質の責任を取れるんだ?
等々。
こんなことを、10年間、来る日も来る日も一人で考え続けた。

3.25歳のころ(1980年代後半)、「たまたま」に対置されるべきが「たまたまではない」ではなく(それは理屈上不可能)、「現に」であることに思い至り、「たまたま」が頭に思い浮かぶたびに、積極的に次のように自分に言い聞かせることにより、なんとか普通の人間になることができた。
・ベン・ジョンソンは「たまたま足が速い人」なのではない。「現に」足が速い人なのだ。もし足が速いことに価値があるのなら、だから彼は価値がある人なのだ。
・ヒトラーは「たまたま悪人になった人」なのではない。「現に」悪い奴なのだ。だから彼が処罰されるのは当然なのだ。
・ある人が美しく、そして美しいことは価値があるのであれば、その人がたまたま美しく生まれたのだとしても、その人は「現に」美しいことによって価値がある。その因って来たる由縁が「たまたま」だとしても、その価値はいささかも毀損されない。
等々。
それ以降この問題で「苦しむ」ことはほぼなくなり、普通の人のように、人を責めたり、褒めたりすることができるようになった。普通の人とは、人を評価したり責めたりするときに、「現に」と「たまたま」を適当に(適切に)、いいかげんに(良い加減で)、特にそこに矛盾を感じることなく、意識することもなく自然に、使い分けることができる人のことだったんだ!、というのが、苦しみを脱した時の私の率直な感慨であった。

4.この問題で苦しまなくなって以降も、私はこの問題を断続的にではあるが考え続けてきた。ここ10年くらいは永井均の哲学がごく一部だが理解できたような気になり、それも自分なりに応用しつつ考えている。
永井哲学はご承知のとおり〈私〉の存在と〈今〉の存在という誰の目にも明らかな2つの事実から出発する哲学である。この哲学を学んだことにより私は、たまたま論(運の支配論)も、私におけるそれと他者におけるそれとではまったく意味が異なってくるのではないかと考えるに至った。永井均「哲学探究1」17頁の言葉を借りれば、(たまたま論もまた)〈私〉の存在を最初に捉えそこなったために生じた偽の問題設定ではないか、と考えるに至った。

5.以上の事情からすれば、私がこの「たまたま」の意味を誤解したり捉え損なっているということは(おそらく)ない。
たとえば、第一リプライの、「「私はたまたま男に生まれた」と他人が言えば、私は、「冗談じゃない。男である人間、「それが」あなたなのだ」と言いたくなる。しかし、自分については「私はたまたま男に生まれた」は真だと思う」に使われている「たまたま」も、私は、偶然の意味ではなく、「自己のコントロールを超えていること」の意味で使っている。以下でも、特に断りのない限り、「たまたま」をこの意味で使う。

6.であれば、逆に、山口先生こそが、私の第一リプライの真意を理解していない可能性がある。そこで、以下、第一リプライの(理解を促すための)補足を行う。

第2.二種の「運の支配」論
本講義では、二種の運の支配論が主張されている。

1.ひとつは、「その人」が「そう」であることの一切合財(その人が今持っている全性質、その人が置かれている一切の環境、その人の意志の内容)は、つまるところ、その人にとってたまたまなのだから(その人がコントロールできたことではなかったのだから)、その性質や環境のゆえに彼が起こした事件について、彼の責任を問うことはできない、という主張である。
講義原稿ではサイラスの事件などにおいて主張されている。サイラスは、
①たまたま臆病ではない性格であり、
②たまたま殺そうと思ったのであり、
③たまたま手近に鉄の棒があったのだから、
彼の起こした殺人について彼に責任を帰すことはできない、という主張である。

2.もうひとつは、人の行為は、科学的視点から「引いて」見れば(あるいは逆に「接近して」見れば)「出来事」に過ぎず、行為者に責任を負わせることはできない、という主張である。
講義原稿では主として第5節でネーゲルの議論に即して主張されている。

3.以下では、前者の主張を「たまたま論」と言い、後者の主張を「無意志論」と言う。
注意すべきは、行為の内容、意志の内容はあくまでもたまたま論による「たまたま」であり(彼がそばではなくカレーを選択したことは「因果の連鎖を遡って、最後には彼のコントロールを超えた遺伝および環境に行きつく」)、それが「行為」であること「意志」であることが、無意志論により否定される(彼がカレーを食べたことは「行為」ではなく「出来事」である)、という点である。

4.この2つは一見よく似ているが全く別の主張であり、主張がもたらす帰結もある意味では正反対になる。結論から言えば、たまたま論は「私に責任はない」という帰結をもたらし、無意志論は「他者に責任はない」という帰結をもたらす。以下ではまずたまたま論から見ていく。

第3.私は「たまたま存在」であり、他者は「のこと存在」である(たまたま論)
私の主張の結論を先に述べれば次のとおりである。
①私が宮武徹雄であること(宮武徹雄が〈私〉であること)はたまたまである(ただし、この「たまたま」は、「自己のコントロールを超えていること」の意を含み、しかしこれに尽きない)。
②このたまたまは唯一無二である。山口先生が言う「私が山口尚であることはたまたまである」は(初発には)端的に無意味である。「あなた」は「山口尚という人間」なのだから、そのあなたが言う「私が山口尚であることはたまたまである」は、「山口尚が山口尚であることはたまたまである」と言っているに過ぎず無意味である。
③たまたま論の「たまたま」は、①の「たまたま」が誰にとっても正しいと言語的に解釈された結果(言語は、「私はたまたま宮武徹雄である」と「私はたまたま山口尚である」を区別しない)、この意のうちの「に尽きない」部分が剥ぎ取られ、単に「自己のコントロールを超えていること」の意のみを有するものに変質したものである。即ち、山口尚が言う「私が山口尚であることはたまたまである」も、ヒトラーが言う「私がヒトラーであることはたまたまである」も、大谷翔平が言う「私が大谷翔平であることはたまたまである」も認める世界における、各発言に現れる「たまたま」が、たまたま論のたまたまである。
この主張は、私には当たり前のことに思えるし、直観的に理解できる人にはこれ以上の説明は不要だと思う。直観できない人に対する説明のルートはおそらく複数あると思われるが、以下はその一例である。

1.たまたま論は正しい
講義原稿にある、「因果の連鎖を遡って、最後には彼のコントロールを超えた遺伝および環境に行きつく」「彼自身にコントロールできない遺伝および環境の結果としてサイラスの初期的な性格は形成され、この初期的性格と外的要因の組み合わせは彼のその後の行動を生み、そのフィードバックとして彼の性格は修正されていく――こうした因果の流れにおいては、先行する状態が後続する状態を決定する。したがって、出発点の遺伝と環境のあり方が彼のコントロールを超えている以上、《サイラスが現在何を意志するか》も彼のコントロールを超えた原因の結果なのである。」は、15歳からの10年間私が考えてきたことのまさに代弁であり、これは全面的に正しい。実例を挙げれば次のとおり。
・私はたまたま男である
・あなたはたまたま教師である
・ヒトラーはたまたま悪人である
・大谷翔平はたまたま野球が上手い

2.たまたま論は不可避的に全面化する
(1)裁判の情状酌量だとか、最近なら「親ガチャ」論などにより、たまたま論は部分的には一般的にもよく主張される(例:「彼が障害を持って生まれたのはたまたまだ」「自分では選択できない幼少期の環境により彼の犯罪性癖は形作られた」など)。しかし、我々のたまたま論はこんな生易しいものではない。
つまみ食い的にたまたま論を援用して、「たしかに生まれつきと幼い時の環境は本人にとってたまたまだけど、大きくなってからの自分の意志内容にはたまたまじゃない要素がある(そこにこそその人の真価が現れる)」とか、「同じ劣悪な環境に育っても、犯罪に走らない人もいる(だからあなたには責任がある)」などは言えない。講義原稿にあるように「《運をどう引き受けるか》への自分なりの答えを与えることすら運に支配されている」のである。このように、たまたま論は正しいから認めなければならないが、中途半端にではなく、全面的に、徹底的に認めなければならない(認めないわけにはいかない)。即ち、たまたま論は不可避的に全面化する。
(2)話は逸れるが、その意味では、講義原稿の最終段落も次のようであるべきだったのではないだろうか。
「何が言いたいかと言えば次だ。すなわち、《運をどう引き受けるか》を「自分のコントロールできる事柄」と見なしてその仕方を選ぶことと、《運をどう引き受けるか》への自分なりの答えを与えることすら運に支配されていると自覚しながらその仕方を選ぶことのあいだには無視できない違いがあるが、そのどちらに転ぶかさえも運次第なのだ、と。古田の哲学はひとを後者の境域へ引き入れるが、そもそも古田の文章やこの山口の文章を読むかどうか、読んでそれをどう理解するか、そのすべてがたまたまなのだから。古田の哲学は多くのひとを〈運の支配を徹底的に直視しながら自分の生き方を選ぶ〉という境域まで連れて来てくれるであろうが、決してそこにとどまることを自分に許してはいけない。「選ぶ」か否か、選んだ結果がどちらか、そのすべてがたまたまなのである。「選ぶ」より「たまたま」のほうが常に一歩先を行くのである。」

3.たまたま論は、「△△が私であることは、私にとってたまたまだ」と一般化されるべきである
たとえば先生から頂いたリプライ中の
「あらゆることが(論理的あるいは形而上学的な様相の意味で)必然的な世界においても、《私が教師をしていること》は私にとってたまたまでありえます」の部分も、
「あらゆることが必然的な世界においても、《山口尚を構成する(教師であることを含む)ありとあらゆる全性質、全経験、全条件》は私にとってたまたまです」であるべきではなかったか。
両親△△と△△の間に、△年△月△日生まれたこと。男であること。△△の生まれつきを持ち、家庭環境は△△で・・これら一切の普通に考えてたまたまな(コントロール下にない)ことはもちろん、一見したらたまたまではない(私のコントロール下にあると思われる)、たとえば昨日そばを食べたことも、「なぜそばを食べようと思ったか」「なぜそばを食べることができたのか」「そしてなぜそばを食べたのか」の原因にまで分け入り、これを遡って考えれば、結局は全てたまたまな(コントロール下にない)ことに到達してしまうからである(「因果の連鎖を遡って、最後には彼のコントロールを超えた遺伝および環境に行きつく」のだから)。
つまり、先生が言わなければならなかったことは、「あらゆることが必然的な世界においても、《山口尚(という人間)を構成するありとあらゆる全性質、全経験、全条件》は私にとってたまたまだ」ではなかったか。そして、《山口尚(という人間)を構成するありとあらゆる全性質、全経験、全条件》の束(塊)が即ち「山口尚(という人間)」なのだから、先生が真に言わなければならなかったことを一歩踏み込んで言うならば「山口尚(という人間)が私であることは、私にとってたまたまだ(コントロールを超えていた)」ではなかったのか。
実例を挙げれば次のとおり。
・私はたまたま「宮武徹雄という人間」である
・あなたはたまたま「山口尚という人間」である
・ヒトラーはたまたま「ヒトラーという人間」である
・大谷翔平はたまたま「大谷翔平という人間」である
・誰だってたまたま「その人間」である

4.「「たまたま」だからその人には責任を問えない(無責論)」「「たまたま」だからその人は称賛に値しない(無価値論)」は誤りである
第1の3項に記したとおり、私は10年間苦しんだ後、「現に」の境地に達して救われた。注意すべきは、「現に」は「たまたま」を否定するものではない点である。「たまたま」を認めつつも、それとは別のこととして「現に」なのである。
人に責任を問うたり、人を称賛したりするのには、本来この「現に」のみで十分なはずである。
実例を挙げれば次のとおり。
・ヒトラーはたまたま悪人だが、ヒトラーは「現に」悪人なのだから、ヒトラーは非難されるべきである
・大谷翔平はたまたま野球が上手いが、大谷翔平は「現に」野球が上手いのだから、(野球が上手いことが称賛に値するのであれば)大谷翔平は称賛されるべきである

5.たまたま論から無責論、無価値論が導かれる理由
ではなぜ、たまたま論から無責論や無価値論が導かれるのか。サイラスの例であれば、一般的にもたまたまと考えられる「手近に鉄の棒があったこと」だけでなく、普通はたまたまとは考えられない「臆病ではない性格であること」「殺人意志を有したこと」にまでたまたま論が適用されるのはなぜか。「鉄の棒」の例や「無理やりにこそばされた結果として笑ってしまったひと」や「舗装したての道路に気づかずに足を踏み入れて足跡をつけてしまったひと」の場合に――つまり常識的にもたまたまと考えられる場合に――「私たちがじっさいに採用している」「《コントロールが無ければ責任も無い》という原理」が、なぜ、常識的にはたまたまとは考えられない「臆病ではない性格であること」「殺人意志を有したこと」にまで拡大適用されてしまうのか。
それは、
・たとえば自分への非難・否定的評価に対しては「もしあなたが私だったらあなただってこうなった(①)」と感じ、
・たとえば他人への非難・否定的評価に対しては「もし私があいつだったら私だってああなった(②)」と感じ(これが「道徳」や「同情」の基礎にある事実である。曰く「他人の身になって考えなさい」)、
・たとえば他人への称賛に対しては「もし私があいつだったら私だってああなった(③)」と感じ、
・たとえば自分への称賛に対しては「もしあなたが私だったらあなただってこうなった(④)」と感じるからである。
もしそう感じないのであれば、「責任」を問う(たり「称賛」に値するか判断する)際に、「手近に鉄の棒があったこと」はともかくとして、「臆病ではない性格であること」「殺人意志を有したこと」にまで「たまたま」性が入り込む余地はなく、「現に」性だけで十分なはずである(たまたま論は「手近に鉄の棒があったこと」にとどまるはずである)。
そして重要なことは、①~④はたまたま論の別の表現であるという点である。
例を挙げれば次のとおり。
・(①の例)確かに私は私の意志で人を殺した。でも、それは、私がたまたまこう生まれ、たまたまこう育ち、・・・により、たまたま殺人意志を有し、殺人に至っただけなんです。すべてたまたまなんです。もしあなたが私だったら間違いなくあなただってこうなりました。だから私に責任はないのです。「たまたまそのポジションにいただけの」私のみが罰せられるのは不当です。
・(②の例)確かにヒトラーは悪人だ。それは間違いない。でも、彼にしてみれば、たまたまそう生まれ、たまたまそう育ち・・・により、たまたまあの性質になり、たまたまあの地位になり、たまたまあのような野望を抱き・・たまたまあのような結果になっただけなんだ。もし私がヒトラーだったら間違いなく私だってああなった。私に限らず、誰がなったってああなった。あの「ヒトラー」の存在がまさにそれを証明している。ヒトラーの責任を問うことが誰にできようか。彼は「たまたまそのポジションにいただけの」人間に過ぎないのに。
・(③の例)確かに藤井聡太は素晴らしい将棋棋士だ。でも、彼にしてみれば、たまたまあの才能に生まれ、たまたまその才能を開花する環境に育ったが故で、すべてはたまたまだ。もちろん本人は努力しただろうが、全く同じ環境に育って努力しなかった人と比べればそれが彼の「努力する才能」の故であることは明らかだし、逆に全く同じ才能(努力をする才能も含む才能)を持ったにもかかわらず努力をしなかった人と比べればそれが彼がたまたま巡り合わせた「努力を促す環境」の故であることは明らかだ。一切合財はたまたまだ。つまり、もし私が藤井聡太だったら私だってああなったのだ。誰だって、あのように生まれてあのように育てばああなったのだ。そんな彼を称賛できようか。
・(④の例)みんな俺のことを天才ピアニストだって褒めるけど、いやあ全部たまたまなんだよなぁ。たまたまこの才能で、たまたま音楽一家に生まれて、たしかに努力はしたけど、誰だってこの環境でこの才能だったら努力したと思うよ。その証拠に、仮にあなたが私と全く同じ才能で、努力する才能も含めて私と全く同じ才能で、いやいや才能だけでなく一切合財私と同じに生まれて、私と全く同じ環境に育ったら、それってつまり「俺」ってことだから、当然、俺と同じになるよね。つまり俺って、すべてがたまたまなのに称賛されているんだよね。

6.「もし私があいつだったら私だってああなった」は正しい
たまたま論から無責論、無価値論が導かれる理由①~④のうち、②と③、即ち「もし私があいつだったら私だってああなった」は正しい。ここで「あいつ」は固有名で指される特定の人間であり、私は〈私〉である。
実例を挙げれば次のとおり。
・もし私が山口尚だったら、私は、教師をし、@yamaguchi__shoのアカウントでTwitterをし、2023年3月26日に「〈割り切れなさ〉再訪――道徳的運をめぐるネーゲルと古田徹也」のタイトルでnote記事を書き・・・、要は山口尚だっただけである。
・もし私がヒトラーだったら、私だって(△△年に△△で△△の両親の元△△の性質を持って生まれ、△△の環境に育ったことにより性格は△△になり・・により)ヒトラーになった。
・もし私が大谷翔平だったら、私だって(△△年に△△で△△の両親の元△△の性質を持って生まれ、△△の環境に育ったことにより性格は△△になり・・により)大谷翔平になった。

7.「もしあなたが私だったらあなただってこうなった」は誤りである
たまたま論から無責論、無価値論が導かれる理由①~④のうち、①と④、即ち「もしあなたが私だったらあなただってこうなった」は誤りである。ここで「私」は固有名で指される特定の人間、即ち宮武徹雄であるが、「あなた」が何を指しているのかは不明だ。そして、もし「あなた」が固有名で指される特定の人間(たとえば山口尚)を指しているのであれば、「もし山口尚が宮武徹雄だったら」は意味不明であるし、もし「あなた」が一般的な自我を指しているのであれば、(初発には)そのようなものは端的に「無い」からである。「あなた」は山口尚「のこと」でしかない。
実例を挙げれば次のとおり。
・もしあなたがヒトラーだったら、あなたも全く同じことをした(意味不明)
・もしあなたが私だったら、あなたは宮武徹雄だった(意味不明)
・もしあなたが大谷翔平だったら、あなたも全く同じことをした(意味不明)

8.たまたま論は〈私〉についてのみ有意味である
つまり、「たまたま」性は、〈私〉と〈私〉以外の人とでは、まったく意味が異なる。「私はたまたま宮武徹雄である」は「〈私〉はたまたま「宮武徹雄という人間」である」と解すれば全面的に正しい。しかし、「ヒトラーはたまたま「ヒトラーという人間」である」は、前者の「ヒトラー」を「ヒトラーという人間」と解すれば無意味だし、前者の「ヒトラー」を一般的な自我と解するなら、(初発には)そのようなものは端的に「無い」からである。
実例を挙げれば次のとおり。
・私はたまたま宮武徹雄である(正しい)
・あなたはたまたま山口尚である(意味不明)
・あなたにとっては、あなたはたまたま山口尚である(意味不明)
・ヒトラーはたまたま「ヒトラーという人間」である(意味不明)
・大谷翔平はたまたま「大谷翔平という人間」である(意味不明)
* 3項で正しいとされた「あなたはたまたま「山口尚という人間」である」がここでは意味不明とされている点に(つまりここで一つの川を渡ったことに)注意していただきたい。

9.タテのたまたま論はヨコのたまたま論の、実在世界における投影像である
永井均の哲学から用語を借りて、「誰だってたまたま「その人間」である」をタテのたまたま論、「〈私〉はたまたま宮武徹雄である」をヨコのたまたま論と言うとすれば、タテのたまたま論は、ヨコのたまたま論の、「実在世界」(自他の区別なく誰でもが一般的な自我を有する「とされる」世界=「言語的」世界)における投影像であると言える。

10.ヨコのたまたま論がタテ化「され切る」ことはない
「実在世界」が前提とする世界像からするとヨコのたまたま論のタテ化は必然であるとは言え、タテ化され切ることはない。どこまで行っても、〈私〉が消えることはない以上、ヨコのたまたま論が消え去ることもない。
(1)たとえば、大谷翔平についての
①「大谷翔平が凄いのはたまたまだ。たまたま運動神経が良く生まれ、たまたまその才能を伸ばす環境に育ち、たまたま努力家で、その結果ああなったにすぎない。だから大谷翔平は一見すごく見えるけれど、現在の大谷翔平が持つすべての性質は全部本人がコントロールできないことにより決まったことで、本当は彼はすごくないのだ。称賛に値しないのだ。誰だって彼のように生まれ、彼のように育てば彼のようになるのだ。それが彼なのだ。これは彼に対する僻みなどではない。純粋に理屈から導かれる帰結なのだ。」
という一般論としての言説(タテのたまたま論+無価値論)は
②「大谷翔平は「現に」凄い。大リーグで二刀流であんなに活躍するなんて、凄い以外の言葉がない。その凄さの由って来る由縁が彼にとってたまたまだろうがそんなこと関係ない。現に凄い選手のことを「凄い」と言い、現に凄く感じるんだから、彼は文句なく凄い」
という反論(「現に」論)に負けるが、
大谷自身の
③「俺が凄いのはたまたまだ。たまたま運動神経が良く生まれ、たまたまその才能を伸ばす環境に育ち、たまたま努力家で、その結果こうなったにすぎない。だから俺は一見すごく見えるけれど、全部俺のコントロール外で決まったことで、本当はすごくないんだ。誰だって俺のように生まれ、俺のように育てば俺のようになるんだ。みんな誤解してる。俺はすごくない。全部たまたまなんだ」
という主張(ヨコのたまたま論+無価値論)は、
④「大谷さん、あなた「たまたまこう生まれた」って言いますけどね、そうじゃない。こう生まれた人、それがあなたなんですよ。たまたま努力家だったと言いますけどね、そうじゃない、現に努力家な人、それがあなたなんですよ。大谷翔平=あなた、なんだから、そこに隙間はないんだから、俺はたまたまこう生まれた、なんて言うこと自体「できない」んですよ。たまたまだとかたまたまじゃないとか、そういうふうに、「自分」と「自分の持つ諸性質」を分離すること自体出来ない。あなたとはその諸性質の束「のこと」なんですから。卑下する必要はない。あなたは「現に凄い人」なんですよ」
という反論(「のこと」論)に対して、
⑤「そうじゃない。あなた分かっていない。卑下しているわけではない。私がこういうと必ず卑下と取られる。そうじゃないんだ。端的な事実を、理屈からの帰結を、言っているに過ぎないんだ。私、気づいたら大谷翔平だったんです。気づいたらすごい才能だったんです。気づいたら努力家だったんです。全部たまたまなんです」と言い返すことによって勝利する。彼が言いたくてうまく言語化できなかったことは「いや、俺は「大谷翔平」が現に凄いことは認めてる。でも俺が大谷翔平であることはたまたまなんだ。「俺」とは大谷翔平「のこと」ではないんだ」だからであり、それだけは誰も否定できないからだ。もちろんその勝利を真に認めるのは、この「現実世界」の中では大谷本人しかいないわけだけど。

(2)たとえば、ヒトラーについての
①「ヒトラーが悪人なのはたまたまだ。たまたま生まれつき悪人で、たまたま劣悪な環境に育って自らの性格を矯正する機会を逸し、その結果ああなったに過ぎない。だからヒトラーは一見悪人に見えるけど、全部本人のコントロール外で決まったことで、本当は悪くないのだ。誰だって彼のように生まれ、彼のように育てば彼のようになるのだ。それを証明しているのがまさに彼なのだ」
という一般論としての言説(タテのたまたま論+無責論)は
②「ヒトラーは「現に」悪人だ。罪もない人を大量に虐殺した張本人だ。そういう人を悪人と呼び、悪人と評価するのだ。彼が悪人となった経緯が彼にとってたまたまだという事実は評価の際に一切関係ない。彼は「現に」悪人なのだ」
という反論(「現に」論)に負けるが、
ヒトラー自身の
③「私が悪人なのはたまたまだ。たまたま生まれつき悪人で、たまたま劣悪な環境に育って自らの性格を矯正する機会を逸し、その結果ああなったに過ぎない。だから私は悪人と言われているけれど、全部私のコントロール外で決まったことで、本当は私は悪人ではないのだ。誰だって私のように生まれ、私のように育てば、私と全く同じ行動を取ったはずだ。この間「あなたと同じような環境に育っても、立派な紳士になった人もいます」と言われたが、本当に全く同じ環境に育って別の結果になるのだとしたら、その原因は生まれつき以外にはありえないではないか。私の生まれつきを私がコントロールできたはずがないではないか。「あなたと同じ生まれつきでも、自分で努力してその性格を直した人もいます」とも言われた。冗談じゃない。本当に全く同じ生まれつきで、現在の状況が違うなら、それは環境のせいに決まっているではないか。俺が小さい時の環境を選べたか?選べない。自分で環境を選べるようになったとき、その時の俺の性格は、もうこの性格だったんだ。これは言い訳ではない。私がこう言うとみんな「言い訳だ」と言うけど、私は決して言い訳をしたいわけじゃないんだ。本当にたまたまとしか思えないんだ。誰か私をたまたまじゃないと納得させてくれるなら、私は喜んで死刑台に上る」
という主張(ヨコのたまたま論+無責論)は、
④「お前は「たまたまこう生まれた」って言うが、そうじゃない。こう生まれた人、それがお前だ。おまえが生まれつき極悪人なのだとしたら、おまえ=極悪人なのだ。そのおまえ(極悪人という性質をすでに含んでいるお前)が「私はたまたま極悪人に生まれた」というのは、「言い訳」だとか「卑怯」だとかではなく、そもそもまったく意味不明なのだ」
という反論(「のこと」論)に抗して、
⑤「俺は責任逃れをしたくて言い訳をしているのではない。本気で思っているのだ。私はたまたまこう生まれ、こう育ったに過ぎないのだ、と。お前もこう生まれ、こう育ってみればわかる。絶対こうなるから」
と言い返すことによって、最終的に勝利する。彼が言いたくてうまく言語化できなかったことは「「ヒトラー」が現に極悪人なのは認める。でも俺がヒトラーであることはたまたまなんだ。「俺」とはヒトラー「のこと」ではないんだ」だからであり、それだけは誰も否定できないからだ。もちろんその勝利を腹の底から認めるのは、この「現実世界」の中ではヒトラー本人しかいないわけだけど。

11.私は「たまたま存在」であり、他者は「のこと存在」である
以上縷々述べたことを別の観点からまとめれば、私は「たまたま存在」であり、他者は「のこと存在」である、と言える。私はどこまでも不安定な「たまたま存在」で、「この人間」になり切れない。それがゆえに、「たまたまこう生まれた」「たまたまこう育った」「ゆえに私の全性質は私にとってたまたま」だと言いたい(そしてそれはある意味で全面的・徹底的に正しい)。「現に足が速い人」であると同時に「たまたま足が速い人」であり、「現に悪人」であると同時に「たまたま悪人」なのだ。(よって、たとえば「たまたまの悪人」としてどこまでも無責を主張できる(もちろん通用しないが)。)
他方他者は「のこと存在」で、本来的に「たまたま」性がない。悪人であれば「現に悪人(のこと)」であり、足が速ければ「現に足が速い人(のこと)」である。それ以上がない。(よって、たとえば「現に悪人」として責任を負担させることができる。)
しかし、他人といえども、その人に「とっては」私だ。我々が他人を見る視線から「とっては私」性は拭い去れない。この観点から見れば、他人も「たまたま存在」になり得る。「彼だって、たまたまああ生まれて、たまたまああ育って、ああなったに過ぎないのだ」と。
また、他者の視線の内面化により、私も常に「そういう人間のこと」でもあるわけだから、「のこと存在」の側面から逃げることはできない。「悪人」になり切って反省して刑に服することもできるし、「凄い人」になり切って、何のためらいもなく称賛を受けることもできる。
ただ、私の出発が「たまたま存在」にあり、他者のそれが「のこと存在」であることはどこまで行っても消えないため、私が「のこと存在」に完全になり切ることはできないし、他者が「たまたま存在」に完全になり切ることもできない。私はどうしても自分がこの人間であることがたまたまとしか思えないし、他者が同じ主張をすれば「馬鹿馬鹿しい」としか思えない。

12.第一リプライにおける「その「たまたま倨傲な性格を与えられたひと」が自分なのか他人なのか(永井均の哲学の用語を借りれば〈私〉なのか〈私〉ではないのか)を抜きにしてこの問題を論ずることはナンセンス且つ不可能」だ、という私の主張は以上の理由による。

第4.私は「意志するもの」であり、他者は「物」である(無意志論)

1.無意志論はたまたま論とは全く異なる主張である
(1)たとえばサイラスを免責させる主張のうち、ひとつは次のようなものであった。
彼がたまたま臆病ではない性格で、その性格もあってたまたま殺そうと企図し、たまたま鉄の棒が手元にあり・・・即ち、彼がブロズキーを殺害した時に有していた彼を構成する一切合財――即ち「サイラスという人間」――が「彼」にとってたまたまだったのだから「彼」に責任はない。
この主張を私はたまたま論と名付け、
・サイラスが他人である場合、「サイラスという人間」とは別に「彼」などを措定することはできないのだから、この主張は成り立たない、
・サイラスが私である場合にのみ、「サイラスという人間」はどこまで行っても〈私〉にとってたまたまの存在にすぎないのだから(もちろん他人には通じない主張(共通言語では語れない主張)ではあるが)、〈私〉は(そっと沈黙しながらも、私にのみ通じる言葉で)自分を免責することができる、
・そしてこれこそがたまたま論の根底にある事実だ、
と結論付けたことになる。
(2)しかしこれでは終わらない。サイラスを免責させるもう一つの主張がある。たまたま論は、サイラスの殺人意志について、彼自身の意志であることを認めたうえで、しかしその意志内容が彼にとってたまたまなのだ、と主張したが、もう一つの主張は、そうではなく、「科学的な視点においては、人間の行動はすべて先行する出来事の結果であり、〈自分の行動を自分で決める主体〉は消滅する。「ひとが何かをする」と見なされていた現象は「ただ出来事が生じる」へ同化される」ため、そもそもその殺人意志は意志ではなかった(たんなる出来事だった)、だから彼を責めることはできない、という主張である。
これが「無意志論」である。

2.無意志論と自他
(1)サイラスが他人である場合、初発には、無意志論は端的に正しい。他人の原型(〈私〉により擬私化される前の他人)は物であり、一見「意志」により「行為」しているように見えても、「科学的視点」により俯瞰してみれば、あるいはぐっと接近してみれば、そんなものが錯覚だったと気づくのは、単に事実に気づいただけに過ぎない。もし「意志」でなした「行為」でなければ罰することができないというドグマを適用するのであればサイラスを罰することはできない。
※ただし、他方では、たまたま論により彼が「悪い」という性質を「現に」持っていることは明らかだから、「悪い機械」を回収するように、あるいは狂犬病に罹患した犬を隔離するように罰しても良いし、あるいは再度サイラスを「この世界」の住人に戻し、意志という虚飾を被せなおして、「人間として」罰しても良い。そこに本質的な問題はない。要するに、サイラスが他人である場合、無意志論の観点からは、彼に「責任」はなくなってしまうが、彼を罰する方法はいくらでもある、ということである。
(2)自由意志概念の故郷は、〈私〉の、「ふつうに物体なのに、なぜか内側から動かせる変な物体がある!」(永井均「存在と時間 哲学探究1」124頁)という驚きにある。これをどんなに「科学的視点」から見ようが、この自由意志が消えるわけではない。ちょうど、痛みの発生するメカニズムが完璧に解明され、それを私が完全に理解したとしても、叩かれれば痛いあの「痛み」は、〈私〉においては、びくともせずに残るように(自由意志は第零次内包をその本質とする、と主張しているわけではない(念のため))。
(3)まとめれば、他人にはもともと自由意志など無いが、他人に〈私〉を読み込むことによって、「他者の自由意志」なるものが「あることになる」。我々はそれを相互に認め合う世界に住んでいるが、「科学的視点」がこの虚飾をはぎ取ると、他者の自由意志なるものは存在しなかったという端的な事実に気づかされることになる。他方、この「他者に自由意志など無かった」という「発見」を、自由意志の故郷たる〈私〉にも誤って適用してしまい、「おかしい。自由意志などないはずなのに、私は今自分の意志で立ち上がった。矛盾だ」などと感じてしまう、ということである。
(4)上記立場からは、責任をとれるのは、唯一意志を有する〈私〉だけである。物たる他人に責任を取る権利はない。しかし、「我々」は、相手も責任が取れる主体であることを(つまり相手も「私」であることを)認めあう世界の住人である。この世界は、相互に私であることを、つまり相互に責任が取れる主体であることを認め合うことで成り立っているのである。

※余談になるが、これを時間論に置き換えれば次のとおり。〈今〉(真の今=2023年6月の今)、私に自由意志があることに間違いはない。それは、そばを食べるかカレーを食べるかを今自分で選べることから明らかだ。ところで私には、過去である2023年3月1日にも、そばを食べるかカレーを食べるか迷った末にカレーを選択した事実があるのだが、その際の私に自由意志はあったか。2023年3月1日を過去と見て、この決断をした際の私を「科学的視点」により徹底的に分析すれば、過去の私は既に他者なのだから、その際の私に自由意志など無かったことは明らかだ。しかし、過去である2023年3月1日と言えども、その時点では今であった。そして、その時点にとっての今(=《今》)と真の今(=〈今〉)とは、本質において同じなのだから、今(〈今〉)私に自由意志があるのであれば、その時の今(《今》)にだって私には自由意志があったので「なければならない」。今私がそばを食べるかカレーを食べるかを自分で選べるのであれば、その時だって「そばを食べるかカレーを食べるかを自分で選べ」たのでなければならない。他者を他者として見る限り他者に自由意志など無いが、他者だってその人にとっては私だと見ればその他者に自由意志が発見されるのと類比的に、過去を過去として見る限り過去の私に自由意志など無いが、過去だってその時点にとっては今だと見ればその過去の私にも自由意志が「あったことになる」のである。

3.無意志論の帰結
かくして、無意志論は、たまたま論とは逆に、(初発には、)他者には責任がないが私には責任がある、という結論をもたらす。

4.第一リプライにおける「「私たちが具えるふたつの視点」の源流は「日常的と科学的」や「内的と外的」にあるのではなく、「自と他」の決定的な差異にこそある」という私の主張は、以上の理由による。

第5.余論
「第一リプライの理解を促す」目的は以上で達した(ことを願う)。
積み残された問題はもちろんたくさんあるが、そのうち2つを挙げる。

1.意志の内容はたまたまなのに、意志であり得るのか
今私がカレーではなくそばを食べているのはたまたまである(たまたま論)。しかし私は自分の意志でそばを食べている(無意志論)。これは矛盾(「そんなものを意志とは呼べない」)だろうか。

2.「手元に鉄の棒があったこと」もたまたまではないのか
他人であるサイラスが臆病ではなかったことは、たまたまではなく、(初発には、)「サイラスとは「臆病ではない性質を有する人」「のこと」」であった。では、手元に鉄の棒があったこともたまたまではなく、サイラスとは△年△月△日△時△分に手元に鉄の棒があった人「のこと」、なのか。

1はたまたま論と無意志論が逆方向を向いているために生じる種類の問題であり、2は他者に〈私〉をどの程度読み込むか(及び他時点に〈今〉をどの程度読み込むか)が確定しないために生じる種類の問題である。その理解さえあれば、この種の問題にどのような説を採用するかはさほど重要なことではないと考える。

*1 山口先生が2024年1月頃noteのアカウントを削除されたので、引用元の文章を見ることができなくなってしまいました。
山口先生の2023年3月26日付note記事(「〈割り切れなさ〉再訪――道徳的運をめぐるネーゲルと古田徹也」)は次の文章でした。
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〈割り切れなさ〉再訪――道徳的運をめぐるネーゲルと古田徹也
山口尚
2023年3月26日 16:23
2023年3月26日に「時間・偶然研究会」で発表をする。
zoomで参加される方にはチャット機能で原稿を渡せるが、youtubeの配信を視聴される方には原稿を渡すことができない――それゆえここに原稿を置いておく。PDFで欲しい方は次をダウンロードすればよい。
時間偶然研究会(発表原稿).pdf
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同じ原稿を以下に載せておく。
>>>
第1節 イントロダクション
本稿は日本の哲学者・古田徹也の考え方の理解を深めることを目指す。はじめにこの企ての意図をいくつかの角度から説明する。
第一に、本稿は〈現代の日本哲学のシーンを特徴づける〉という作業の一環と見なされうる。私は二〇二一年に『日本哲学の最前線』[*]という作品を公刊し、そこで二〇一〇年代の日本の哲学を〈不自由論〉で特徴づけた。すなわち、より根本的な意味で「自由」になるために、自己の不自由を直視すること、これが二〇一〇年代の日本哲学の特徴だと指摘したのである。そこでは國分功一郎・青山拓央・千葉雅也・伊藤亜紗・古田徹也・苫野一徳の各々の立場が取り上げられたが、古田にかんしてはその言語論に焦点が絞られた。詳しく言えば、彼の『言葉の魂の哲学』[**]をメインのターゲットとし、その根本的な立場を〈しっくりいく言葉を求めて迷い悩むこと〉の重要性へ目を向けるものと捉えた。それにたいして本稿は彼の行為論に焦点を合わせる。すなわち、彼の別の単著『不道徳的倫理学講義』[***]を取り上げて、その行為論を〈不自由論〉の観点から読み解くことを目指す。要するに、『日本哲学の最前線』の仕事をさらに推し進める、ということだ。
 [*] 講談社現代新書、二〇二一年
 [**] 講談社選書メチエ、二〇一八年
 [***] ちくま新書、二〇一九年
第二に、本稿は『不道徳的倫理学講義』で展開されるいろいろな議論のうちでいわゆる道徳的運の問題にかんするものを考察するが、この話題はこの研究会――すなわち偶然をテーマとする研究会――の関心に合致する。じっさい、偶然という事象を全体的に考察するとなれば、道徳における運の話題は避けて通れない。「道徳的運の問題」が何であるかは後で詳しく説明するが、これは偶然論にとってたいへん重要であり、ぜひこの機会にいろいろと考えてみたい。そしてこの問題にかんしてはアメリカの哲学者トマス・ネーゲルがクリアな論考[*]を公にしているので、本稿ではそれを参考にする。それゆえ以下では《ネーゲルがこの問題をどう扱うのか》も説明されるだろう。
 [*]「道徳における運の問題」、永井均訳『コウモリであるとはどのようなことか』(勁草書房、一九八九年)所収、四〇‐六三頁。“Moral luck,” Mortal Questions, Cambridge: Cambridge University Press: 24-38.
第三に、本稿の題名から示唆されるかもしれないが、以下の議論はネーゲルの考え方と古田のそれを対比する。どんなコントラストがつけられるかは後のお楽しみである。
本稿の議論は以下の順序で進む。はじめに「道徳的運の問題」がどのようなものかを説明する(第2節と第3節)。次に、この問題への「カント的な」解決とその不十分さを確認し(第4節)、その後で《ネーゲルがどのように考えるか》を見る(第5節)。最後に、道徳的運の問題をめぐる古田の議論を追い、その〈割り切れさな〉を体感する(第6節から第8節)。
第2節 《コントロールが無ければ責任も無い》という原理
「道徳的運の問題」とは何か――本節と次節はその説明である。
はじめに「道徳」という言葉にさしあたりの輪郭を与えておく。これは《ひとびとが互いの責任を問題にし、場合によっては責めたり称えたりする》という文脈と解されたい。すなわち、責任および非難や称賛が問題になる文脈が「道徳」と呼ばれる、ということだ。このように道徳では「責任」・「非難」・「称賛」がキーワードになる。
さて道徳の文脈では次の原理が成り立っているように思われる。
ひとが何かに責任を負い、そのためにそのひとを責めたり称えたりできるのは、そのひとがその何かを自分でコントロールできる場合だけである。
いささか抽象的なので、具体的に考えてみよう。XがYを殴ってケガをさせた、というケースを考えてみる。この場合――特別な事情がなければ――XはYがケガをしたことの責任を負う。そしてそのためにXは「してはいけないことをした」と責められる。だが詳しく調査すれば、事件の最中においてXはまったく無意識状態であり、Xの脳内に埋め込まれた装置を使って第三者のZがXの身体を操作し、それでもってYにケガをさせていたことが分かったとしよう。この場合、Xは自分の身体運動やそれが生み出す結果をコントロールできなかったことになる。かくして、先の原理(すなわち、コントロールが無ければ責任も無い、という原理)に従うと、Xは問題の行為や結果に責任を負わない。そしてXを責めることは正しくない(むしろYにケガさせるかどうかを選ぶことができたZこそが責められるべきである)。
じつに――細かな注意点はあるにせよ――私たちは、生活の多くの場面で、問題の原理に従って判断している。例えば、電車が揺れたため、あなたはバランスをくずして隣のひとの足を踏んでしまったとしよう。あなたはもちろん謝るだろうが、同時に《足を踏んだことを激烈に責められるのは不当だ》とも考えるだろう。じっさい、仮に隣のひとが激しくかつ執拗に責めてきたとしたら、「電車が揺れたから踏んでしまったのであり、仕方がないじゃないですか」と抗弁するはずだ。これは《コントロールが無ければ責任も無い》という原理に従った抗弁だ。そしてあなたは「揺れることを警戒していなかった点は認めます――その点は謝ります」と言うかもしれない。たしかに《警戒するかどうか》はあなたにコントロールできたと言えるかもしれず、その場合には、この点の責任は生じる。いずれにせよ《コントロールが無ければ責任も無い》という原理は成り立っている。
ネーゲルはこの原理が「道徳的判断の通常のありかた」に属すとする[*]。ここでの「道徳的判断」とは《誰が何に責任を負うか》の判断を指すが、これについて次のように論じる。
したがって、不随意の運動、物理的な力、状況に対する無知によって生み出された統制の明らかな不在状態において為されたことは、道徳的判断の対象とはならない。[**]
例えば他人から無理やりにこそばされた結果として笑ってしまったひとを「どうして笑うのか」と責めることはできない。また、舗装したての道路に気づかずに足を踏み入れて足跡をつけてしまったひとにかんしても、「知らなかったのなら仕方がない」と言われるのがふつうである。そして、仮にこうしたひとを責めたいのであれば、何かしら当人にコントロールできた事柄を見つけないわけにはいかない。例えば「足元に気をつけて歩くべきだった」と責めるという具合である(ここでは《気をつけるか否か》が当人にコントロール可能なものとされている)。ここでもやはり《コントロールが無ければ責任も無い》という原理は成り立っている。
 [*] ネーゲル「道徳における運の問題」、四一頁
 [**] ネーゲル「道徳における運の問題」、四二頁
いったんまとめよう。ネーゲル自身が強調することだが、《コントロールが無ければ責任も無い》という原理は私たちがじっさいに採用しているものである。言い換えれば、これはどこかの哲学者が「この原理を採用してみてはどうか」と提案するものではなく、むしろ〈責任〉および〈コントロール〉の通常の理解に組み込まれているものである。しかしながら――いまから見るように――こうした「当たり前の」原理から無視できない問題が引き出されうるのである。
第3節 道徳的運の問題
それはどんな問題か。具体的に説明したい。
江戸川乱歩が編集した『世界推理短編傑作集』の第二巻[*]にはイギリスの作家オースティン・フリーマンの作品「オスカー・ブロズキー事件」(一九一一年発表)が収められているが、これはいわゆる倒叙形式をとった作品のうちの古典的な傑作であり、犯人がひとを殺めるに至るさいの心理が細かく描写されている。
 [*] 創元社推理文庫、二〇一八年、翻訳は大久保康雄による。
ある日、サイラスという男の家の前を、目のほとんど見えない男性が通る。どうやら道に迷っているようだ。サイラスは、はじめは親切心から、男性を家へ入れてあげた(後でサイラス自身が駅へ行く用事があるので、そのさいに駅まで送ってあげようと考えた)。
家の中でサイラスは男性が宝石商のオスカー・ブロズキーであることに気づく。そしてサイラスはこの男性が相当量のダイヤモンドを持ち運んでいると考える。徐々にサイラスの中に犯意が芽生えてくる。というのもブロズキーがこの家に寄っていることを知っているひとは他所に誰もいないのだから。とはいえ躊躇もする。《殺して持ち物を奪うなんて常軌を逸している》とも思われるからである。
サイラスがどうするか迷っている場面の描写は興味深い。彼は目の見えないブロズキーの周囲を、音を立てずに行ったり来たりするのだが、
そっと音もなくサイラスは猫みたいな忍び足で一歩一歩、部屋のなかへはいって行き、ブロズキーの坐っている椅子のすぐうしろに立った――ひどく間近だったので、相手の男の頭髪を息でそよがせないように顔をそむけていなくてはならなかった。サイラスは半分間ばかり、殺人を象徴する超克のように身じろぎもせずに立っていた。そしてきらめく恐ろしい眼で知らぬが仏のダイヤモンド商人を睨み下ろしながら、ひらいた口から音もなくせわしく息づき、巨大なヒドラの繊毛のようにそろそろと指をくねらせていた。それからやはり音もたてずにドアのほうへ後退し、すばやく身をめぐらして台所へもどった。
彼は深々と息をすいこんだ。きわどいところだった。ブロズキーの命はまさしく風前の灯だった。実にやすやすとやれたからである。事実、相手の男の坐っている椅子のうしろに立ったとき、もしサイラスが凶器――たとえばハンマーなり、あるいは一個の石でももっていたなら――[*]
ここでサイラスは《宝石商を殺してダイヤモンドを奪うかどうか》を迷っている。引用の最後で彼は「もしハンマーのような凶器をもってれば……」と考える。そして――引用の後に続くストーリーであるが――彼はたまたま台所の隅にあった一本の鉄の棒を見つけてしまう。ここからどうなるか。
[*] フリーマン「オスカー・ブロズキー事件」、一七四頁
物語は次のように進行する。
彼は鉄棒をとりあげ、手であやつりながら、自分の頭のまわりをふりまわしてみた。怖るべき凶器であり、音もたてなかった。彼の心のなかにつくりあげられていた計画ともぴったり適合していた。ばかな! こいつはすてたほうがいい。
だが彼はすてなかった。台所の入口へ歩いて行き、ふたたびブロズキーを見つめた。[*]
サイラスは心を決め、ブロズキーの背後に忍び寄り、けっきょく殺してしまう。こうした顛末が紹介された後、作者フリーマンが創作した探偵であるソーンダイク博士が登場し、科学の知識を駆使しながら犯人を追いつめていく。
 [*] フリーマン「オスカー・ブロズキー事件」、一七四頁
はじめに押さえるべきは、サイラスはブロズキーを殺したのであり、その死にかんして責任を負う、という点だ。それゆえサイラスはその犯罪行為にかんして責められるべきである。じっさい、サイラスは私利私欲のためにひとを殺めており、もしこのひとが非難されないのであれば、この世に非難可能なひとはいなくなるだろう。
とはいえ、事態を一歩退いて観察すれば気づかれるが、サイラスの殺人行動は彼のコントロールを超えたいくつもの事柄を原因としている。細かく見てみよう。
第一に、たまたま台所に鉄の棒があったことがサイラスの殺人行動の重要な原因だ、と指摘できる。もちろん――このあたりは繊細な議論が必要だが――仮に鉄の棒がなくても、サイラスはその他に武器になるものを探したかもしれない。とはいえ《そのさいにちょうどよく武器になるものが見つかるかどうか》は運次第である。あるいは、ブロズキーを殺そうかどうか悩んでいるときに、たまたま急な来客があって犯罪の遂行が防がれるかもしれない。そして《急な来客があるかどうか》もまたサイラスのコントロールを超えている。こうした諸々の点に鑑みれば、サイラスが最終的に殺人を犯したことは、彼のコントロールを超えたさまざまな要因の結果だと言わざるをえない。そしてこの場合、《彼が殺人を行なうかどうか》は、サイラス自身がコントロールしうる事柄でないことになる。
ただちにつけ加えるべき注意は、以上の議論は《サイラスは免責されるべきだ》と主張するものではない、という点だ。私たちは、少なくとも日常的な判断に従うと、《サイラスのような人物は厳しく責められるべきだ》と考える。そしてこの考えはいかなる理屈によっても完全に否定されることはない。とはいえ――前段落で見たように――事件を一歩退いて観察すれば、《いくつものたまたまの巡り合わせの結果としてサイラスの殺人行動は生じた》と言わざるをえない。そしてこの場合、問題が生じる。
いまや私たちが取り組むべき問題を正確に定式化できるが、それは私たちが次の(α)から(γ)までの三つをすべて認めることから生じる。
(α)ひとが何かに責任を負い、そのためにそのひとを責めたり称えたりできるのは、そのひとがその何かを自分でコントロールできる場合だけである。
(β)サイラスは彼の犯罪行動に責任を負っており、そのかどで責められるべきである。
(γ)サイラスの犯罪行動は多くのたまたまの要因の結果である――そのため《彼が犯罪を行なうに至るかどうか》はじっさいにはサイラスのコントロール下になかった。
これら三つをすべて受け入れると矛盾が生じる。じっさい、(β)と(γ)を受け入れれば、サイラスは自分のコントロールを超えた事柄に責任を負っていることになる。とはいえこれは(α)が否定する事態である。かくして三つの命題をすべて認めれば矛盾に陥る。とはいえ――ここが重要だが――私たちにとって(α)と(β)と(γ)はどれも正しく思われるのである。かくして私たちは矛盾から抜け出せない。
問題は《この矛盾についてどう考えるか》であり、これが最も広い意味で「道徳的運の問題」と呼ばれる。ちなみに「道徳的運」という用語の定義が気になるひとがいるかもしれない。これは論者によって用法が異なる。ここでは(β)と(γ)の連言が表現するタイプの事態が「道徳的運」と呼ばれるとしておこう。というのもこれが分かりやすい言葉づかいだからだ。
じつに(β)と(γ)によると、サイラスは、彼のコントロール下になかったこと、すなわち彼にとって「たまたま」のことで責められている。このように《或るひとが自分のコントロールを超えた事柄のために責められる》という事態が「道徳的運」のケースと呼ばれうる。この言葉づかいに従うと、(α)すなわち《コントロールが無ければ責任も無い》という原理は、道徳的運のケースが存在することを否定するものだと言える。そして、この言葉づかいの下では、道徳的運の問題は「はたして道徳的運のケースは存在するか」と表現されうる。
第4節 カント的理路とその不十分さ
以上で「道徳的運の問題」が定式化された。サイラスの例を引き続き取り上げポイントをいま一度繰り返そう。
《コントロールが無ければ責任も無い》という日常的な原理に従うと、ひとは自分のコントロール下にあるものにしか責任を負えない。とはいえ、《サイラスが鉄の棒で殺人を犯したこと》が《台所にたまたま鉄の棒があったこと》を原因とする点などに鑑みると、サイラスは彼のコントロール下にないものに責任を負い、そのかどで責められていると言える。はたしてこの矛盾についてどう考えればよいのか。
本稿をここまで読んだ方々のうちには「いや、突き詰めて考えれば、サイラスは自分のコントロール下にあるものにだけ責任を負っており、彼が責められるのは彼が自ら選んだことについてだけだ」と指摘するひとがいるかもしれない。これは《サイラスへの非難はじつのところ道徳的運のケースではない》とするリアクションだが、これは重要な反応である。とはいえこの路線で考察しても――本節全体で説明するように――矛盾はなかなか解消しない。
例えばドイツの哲学者カントならば以下の仕方で《サイラスの事例が道徳的運のケースであること》を否定するかもしれない。
――たしかに《サイラスが鉄の棒で殺人を犯したこと》は《台所にたまたま鉄の棒があったこと》などを原因としている。それゆえサイラスが最終的に殺人を遂行したのは彼にとって「たまたま」である。だが重要なのは次だ。すなわち、なぜサイラスは責められるべきかと言えば、それはこうした「たまたま」の事柄のためではない、と。むしろ、殺人を意志したこと、すなわち悪意をもち、不正な行為を決意したこと、このために彼は責められるのである。そして〈悪意でもって行為を決意すること〉はサイラスの内面の事柄であり、これは完全に彼のコントロール下にある。一般に《ひとが責められるか称えられるか》は《結果として何が行なわれたか》によらない。むしろひとを責めるか称えるかは《そのひとが何を意志したか》による。なぜなら《悪を意志するか善を意志するか》は完全に主体の意のままになる事柄だからである。
こうした理路は――哲学史的なことを補足すれば――なぜカントは《ひとが行為の善悪は、結果によってではなく、意志の質によって決まる》と考えたのかを説明してくれる[*]。押さえるべきは、人間は行為の結果をコントロールできない、という点だ。例えばWという人物が私欲のために或るひとを殺さんとして引き金をひいたとしても、たまたま銃が壊れていたとしたら、〈殺す〉という結果は実現しない。それゆえ《結果として殺すに至るかどうか》はさまざまな外的要因に左右される。他方で、カントによれば、Wはむしろその悪意のために責められる。じつに、人間の内面へ焦点を絞れば、彼あるいは彼女に完全にコントロール可能な領域が見出される。それは《どう意志するか》の領域だ。そして、責めるか称えるかを《どう意志するか》で判定することにすれば、《責任があるところにはコントロールがある》という原理は維持できる。
 [*] この点はネーゲル「道徳における運の問題」、四〇‐四二頁でも言及される。
こうしたカント的理屈に従うと、サイラスの事例は道徳的運のケースでないと見なされうる。なぜなら、たしかに《彼が結果として殺人を遂行したこと》はたまたまであるが、《彼が悪意でもって殺人を決心したこと》は決してたまたまでないからである。かくしてサイラスは彼のコントロール下にある事柄(すなわち意志の質)で責められていることになり、これは《コントロールが無ければ責任も無い》という原理に反さない。
以上は示唆に富む指摘である。とはいえ――ここからはカント的理屈への批判だが――たとえ人間の内面へ焦点を絞ったとしても、人間が完全にコントロール可能な領域が見出されるわけではない。なぜなら、今から説明するように、《どう意志するか》も当人にとって完全にコントロールできるものではないからである。
押さえるべきは、《ひとがどう意志するか》はそのひとの気質や性格による、という点だ。例えば臆病な性格のひとは、たとえサイラスと同じ状況に置かれたとしても、殺人を決意することができないだろう。この点に鑑みると、サイラスが殺人を決意したのは、彼にたまたま与えられた性格(すなわち臆病でないという性格)のためだと言える。たしかにこれに対して「サイラスは〈不正なことでも機会が来れば果断に実行する〉という性格を自分で育んできたのであり、彼がその性格をもつことは決して彼自身にとってたまたまではない」と反論するひとがいるかもしれない。だが――ここがかなり重要だが――決してひとは自己をゼロから自分の力だけで作り上げることができない。むしろ《なぜサイラスは彼がいま具えているような性格を具えるようになったのか》を問えば、因果の連鎖を遡って、最後には彼のコントロールを超えた遺伝および環境に行きつく。以上を踏まえると次のように言える。彼自身にコントロールできない遺伝および環境の結果としてサイラスの初期的な性格は形成され、この初期的性格と外的要因の組み合わせは彼のその後の行動を生み、そのフィードバックとして彼の性格は修正されていく――こうした因果の流れにおいては、先行する状態が後続する状態を決定する。したがって、出発点の遺伝と環境のあり方が彼のコントロールを超えている以上、《サイラスが現在何を意志するか》も彼のコントロールを超えた原因の結果なのである。
以上の議論が正しければ、カント的理路に反して、たとえ人間の内面へ焦点を絞ったとしても〈主体が完全にコントロールできる領域〉が見出されるわけではない。かくしてカントの理屈は(α)と(β)と(γ)の矛盾を解消するものでなく、その仕方で道徳的運の問題を解決するものではない。では問題の矛盾についてどう考えるべきか。
第5節 道徳的運という矛盾のネーゲルによる分析
ネーゲルと古田はともに《問題の矛盾は解消されない》と考える。おそらくこれが根本的な意味で「妥当な」道行きだろう。もちろん「コントロール」概念を工夫して(α)・(β)・(γ)の生み出す矛盾を回避しようとする道も存在し、これにもいろいろと意義があるだろうが、やはり究極的な矛盾は消え去らないと思う。となると、矛盾をそれとして受け入れたうえで《そこから何が言えるか》を模索することこそが重要になるだろう。ネーゲルと古田はこの道を進む。そして《問題の矛盾へどのように向き合うか》にかんしてふたりは異なるスタンスをとる。そのふたつの態度のコントラストは私にとって興味深いものである。
ネーゲルは問題の矛盾を「眺める」。そしてその矛盾がいかなる淵源から生まれているのかを分析する。
ネーゲルによると、問題の矛盾は、私たちが生きていくうえで必ずやとるところのふたつの視点の衝突から生じる。ここでふたつの視点とは、直感的な言い方では、日常的な視点と科学的な視点である。ネーゲルは《これらふたつの視点は互いに噛み合わさない世界像を提示し、その結果、道徳的運の問題を引き起こす》と指摘する。順を追って説明すれば以下である。
一方で私たちは、互いを「ひと」という自由な行為主体と見なし、《他人が何を行なうか》を気にしながら生きている。かかる日常的な視点においては、私たちは他人の行為に表現される意志や意図をたいへん気にしており、例えば悪意なしに足を踏まれた場合はたいして立腹しないが、悪意をもって足を踏まれたときには怒りを表明しその人物を責める。こうした視点のもとでは、私たちの各々は自分の行為を選ぶことのできる主体であり、《何をなすか》は当人のコントロール下にあると見なされる。
他方で私たちは決して日常的な視点に埋没しっぱなしではない。私たちは、そこから一歩退いて、私たち自身を客観的に観察し、互いを自然の因果の一部である「物体」すなわち「もの」と見ることができる。こうした一種の科学的な視点においては、人間の行動はすべて先行する出来事の結果であり、〈自分の行動を自分で決める主体〉は消滅する。「ひとが何かをする」と見なされていた現象は「ただ出来事が生じる」へ同化される。一切は自然の因果の網目の一部であり、そこから自由な個物は存在しない。こうした科学的視点においては、先行する出来事が後続する出来事を決定論的あるいは非決定論的に引き起こすのであり、「自由な選択」と呼ばれうる事態は一切存在しない。
これらふたつの視点は、やや抽象的に、それぞれ「内的視点」と「外的視点」と呼ばれうるかもしれない。押さえるべきは、第一に私たちが現にこうしたふたつの視点を具えていること、第二にそれらが互いに衝突する世界像を提示することである。じっさい、「ひと」は「もの」ではなく、「行為」は「たんなる出来事」ではない。とはいえ、内的視点において「ひと」と見なされていた人間存在は、一歩退いて外的視点から見ると「もの」になる。あるいは人間の行動は、内的視点の下では「ひとが何かをすること」だが、外的視点の下では「ただ出来事が生じること」の一種である。このようにふたつの視点は衝突する。
道徳的運の問題はこうした〈内的視点と外的視点の衝突〉から生じる。具体的に確認すれば以下である。
サイラスは悪意をもってブロズキーを殺害した――これは内的視点からの記述である。この視点においては、サイラスは彼の行為に責任を負い、それゆえ責められるべきである。よって(β)が成り立つ。とはいえ、サイラスとその事件を一歩退いた外的視点から見れば、それはすべて先行する無数の出来事の結果として生じたものである。とくに事件当時のサイラスの行動も、彼のコントロール下にないさまざまな出来事の結果である。かくして(γ)が成り立つ。だが(β)と(γ)は相容れない。なぜなら、(α)が述べるように、ひとは自分のコントロール下にないものに責任を負えないからである。
このようにネーゲルは道徳的運の問題の原因を〈人間のふたつの視点の衝突〉に見る。例えば曰く、
[…]人が為したことを外から決定したものが、結果、性格、選択それ自体への影響というように、しだいに明らかにされるにつれて、行為が出来事であり、人が物であるということも、しだいに明らかになってくる。最終的には、責任を負う自己に帰されうるものは何もなくなり、残るのは出来事の長い連鎖の一部分でしかなく、それは嘆かれたり祝われたりすることはできるが、非難されたり賞賛だれたりすることはできないのである。[*]
ここでは、内的視点から外的視点へスイッチすることで、「人」は「物」になり、「行為」は「出来事」になり、行為に責任を負う主体は消滅する、と指摘されている。このように――引用でネーゲル自身が強調するように――ふたつの視点は物事を相容れない仕方で捉える。その結果、ふたつの視点は私たちに矛盾をもたらし、ときに《なぜひとがコントロール下にないもののために責められうるのか》と悩ませるのである。
 [*] ネーゲル「道徳における運の問題」、五八‐五九頁
内的視点と外的視点は、以上の議論で示唆されているように、いずれも捨て去ることができない。それゆえふたつの視点が引き起こす矛盾はずっと私たちにつきまとうだろう。この意味で《道徳的運をめぐる矛盾は決して完全には解消されない》と言える。――以上のようにネーゲルは分析する。すなわち、矛盾を観察して、その原因を特定せんとしている。彼は矛盾を「眺めている」。
第6節 トラック運転手の事例
たいして古田は問題の矛盾に「巻き込まれる」。すなわち、人間一般というよりも、むしろ自己自身が、道徳的運という矛盾の中にいる、と考える。この場合、ネーゲルとは違った語りの可能性が開けてくる。
本稿はここまで〈コントロールできないものへの責任〉の問題をどちらかと言えば《ひとを責める》というケースに即して考えてきたが、古田はこれを自責の文脈に置く。もちろん――念のための注意だが―古田は自責の事例ばかりを扱っているわけではないが(彼の論考は多角的だ)、それでも彼が《自己を責める》というケースへウェイトを置いているという点は重要である。なぜならそれによって、本節と次節で見るように、問題がまさしく「わがこと」になるからである。
では古田の考えを一歩ずつ説明していこう。まず彼は次のケースを考察する。
ある男性が、仕事でトラックを走らせている。彼はずっと法定速度を守り、脇見をせず、前方をよく注意し、要するに完璧な安全運転をしていたのだが、道路の茂みから急に子どもが飛び出してきて、避けきれずにその子と衝突してしまう。トラック運転手はすぐに車を止めて救急車を呼んだが、治療の甲斐なく、その子どもは数時間後に病院で亡くなってしまった。彼はひどく落ち込み、「自分はなんてことをしてしまったんだ」とか、「子どもを轢いて死なせてしまった」などと自分を責める。[*]
ここでは、完璧に安全運転をしていたトラック運転手がたまたま茂みから急に飛び出してきた子どもを轢いてしまった、という事例が挙げられている。こうした場合にこの運転手がどのような法的処分を受けるのかは個別の状況によるが、いずれにせよ本稿の文脈で押さえるべきは、この事例は道徳的運のケースと解されうる、という点だ。――この点は以下のように説明できる。
 [*] 古田『不道徳的倫理学講義』、三一二頁
第一に――ポイントの明確化のための仮定だが――《トラック運転手はじっさいに可能な限りの注意義務を果たしており、子どもを避けられるか否かは彼のコントロール下になかった》としよう。だが、こうした場合にも、彼は自分自身を責めるだろう。そして「どうして自分は轢いてしまったのか」という答えの出ない問いに悩まされ続けるだろう。ここではトラック運転手は、自分にはどうしようもなかったと自分でも気づいていることで、自分自身を責めている。この意味でこれは道徳的運の事例であると言える。
ではこうした例を持ち出して古田は何を言いたいのか。この点を明確化するために本稿の前半で説明した《コントロールが無ければ責任も無い》という原理を思い出そう。
これは道徳の原理であった。そして、この原理によれば、トラック運転手は《轢くか否か》をコントロールできなかった以上、彼は轢いたことに責任を負わない。それゆえその点で彼を責めるのは正しくない。では――大事な問いだが――轢いてしまったことで自らを責めているトラック運転手は間違っているのか。古田は「いや、間違ってはいないだろう」と考える。少なくとも何かしらの意味で、自分を責めるトラック運転手は「間違っていない」と言える。だがそれはどのような意味か。
このように――ポイントを繰り返せば――自分にコントロールできなかったことにかんして自分を責めるという振舞いはときに理解可能である。これは、たとえ《コントロールが無ければ責任も無い》という道徳の原理が正しいとしても、そうなのである。では問題の自責はどのような意味で理解可能なのか。この点を掘り下げることが、トラック運転手の事例を持ち出す古田の意図である。
第7節 運の産物を引き受けること 
「結論的な」ことを先取りして言えば以下である。じつにトラック運転手の事例が示すことは、古田によると、《運の産物もまた人生の実質を形づくる》という事実である。ひょっとしたら〈人生においてたまたま出会われた事柄〉はその人生にとって大きな意味をもたないと短絡されるかもしれない――だがそんなことはない。コントロールできなかった事柄の中にも、それを深刻に受け止めて生きていかざるをえないものがある。たしかに〈子どもを轢いてしまったこと〉はトラック運転手にとって「たまたま」だと言える。とはいえ彼はその後の人生を、この出来事との関係において生きざるをえない。決してそれを「自分に関係のないこと」として切り離すことができない。
ポイントは次のように表現できる。すなわち、人生における運の問題のすべてが道徳の原理――すなわち《コントロールが無ければ責任も無い》という原理――によって割り切ってしまえるものではない、と[*]。すなわち、もしも《幸運や不運によってたまたま被ったものに責任を負う必要はない》という原理に従ってトラック運転手が「あれは不幸な事故だった」とケロリと立ち直ることができたならば、話は単純である。とはいえ現実の人生はそうなっていない。むしろ、割り切れない問題と向き合い、割り切れない思いを抱き続ける、というのがつねである。この「割り切れなさ」は古田の初の単著『それは私がしたことなのか』[**]のキー・コンセプトだが、『不道徳的倫理学講義』の終盤はこの概念を再訪する。そして人生の割り切れなさの理解が深められる。
 [*] ちなみに道徳の原理で割り切れない事柄の領域を古田は――バーナード・ウィリアムズに倣って――「倫理」と読んだりする。例えば『不道徳的倫理学講義』の三〇五‐三〇七頁を参照されたい。
 [**] 新曜社、二〇一三年
見逃してはならないのは、ここで古田は私たち自身の人生のあり方を語っている、という点である。すなわち古田は、道徳的運の問題の考察を通じて、《私たちは人生において、ときに割り切れない問題と向き合い、割り切れない思いを抱き続ける》という事実へ目を向けようとしているのである――ポイントは道徳的運を通じて私たち自身のことが語られているという点だ。かくしていまや私たちは〈自己自身に降りかかる運〉について考えるべきだろう。
例えば私にかんして言えば、論文を書き、本を書き、国際学会での発表を行ない、それなりに業績を重ねてきたが、いまだ大学の常勤職が得られない。大学の常勤の公募のマッチングが私にとってうまくいくかは根本的には運次第であるが、私はいまのところその「賭け」に負け続けている。このままいくと生涯テニュアのポジションが得られないかもしれない。もちろん〈非常勤であること〉を恥じてはいないが、収入の安定した常勤の身分を得たいという思いは変わらない。いずれにせよ――ここが肝心だが――ひとはこうしたどうにもならない問題と折り合いをつけて生きていかねばならない。
みなさんの場合はどうか――と私は読者の各人に問いかけたい。順風満帆で生きてきたひとも、たまたま重い病を患ったりして、順調なキャリアのレールから外れてしまうことがある。そんな場合には、「なぜ自分が?」という答えの出ない問いを抱えながら、何とか進んで行ける道を模索せざるをえない。先のトラック運転手もそうだ。たまたま子どもを轢いてしまった。彼は今後もハンドルを握り続けられるのだろうか。あるいは運転とは無縁の仕事を探すだろうか。
ポイントを繰り返せば次だ。すなわち、私たちは運の産物を何らかの形で引き受けながら生きざるをえない、と。いわば「運への責任」というものがある、ということだ。たまたま降りかかっただけだからと言って、引き受けないわけにはいかない。
じっさい、〈子どもを轢いてしまったこと〉はトラック運転手のコントロールできなかった事柄だが、彼は決してそれを「たまたま被った不幸な事故だ」とし自分に無関係なものとしてうっちゃってはおけない。それはたしかに運の産物だが、彼はそれを何かしらの形で自分の人生に受け入れ、それと関係する形でその後の生を形づくっていくだろう。私たちはみなそうである。自分のコントロール下にないものを「押しつけ」られ、それと折り合いをつけながら生きていく――これが人生である。
第8節 〈割り切れなさ〉再訪
前節の議論は《私たちの人生は私たち自身のコントロール下にある》という自己イメージを揺るがす。むしろじっさいには、自分のコントロール下にないものが相当に実質を作っているのが人生である。抽象的なレベルで言えば、環境や素質はたまたま与えられたものであり、人生はそうした「偶然的」資源をやり繰りすることで営まれる。「よい」とされる環境や素質をたまたま与えられた者は「よい」とされる人生を歩む――というのは容易に否定できない真理である。となるといわゆる「成功」も運の産物であることになる。
たったいま述べられたことにたいしては「では人間は完全に受動的な存在なのか」という問いが提起されるかもしれない。この問いへはいったん「否」と答えられる。たしかに人生は運に翻弄されるものだが、人間は完全に受け身であるわけではない。なぜなら、古田もいったん指摘するとおり、《運をどう引き受けるか》は当人次第だからである。曰く、「その引き受け方は様々だ」[*]。
 [*] 古田『不道徳的倫理学講義』、三三三頁
トラック運転手の例に戻ろう。彼は〈子どもを轢いてしまった〉という「たまたま」の出来事を引き受けて生きざるをえない。すなわち、それと無関係では生きられない、ということだ。ただし――目下注目すべき点だが――その引き受け方はひとつではない。
ひょっとしたら、トラック運転手は「子どもの葬儀に出席して、遺族に謝罪する」かもしれない[*]。たしかにこの謝罪が受け入れられるかどうか分からないが、これはひとつの運の引き受け方である。あるいは、彼は葬儀に出席したり遺族に謝罪したりせず、事故の処理を保険会社に任せ、思いを心に秘めてそれ以後黙々と仕事に専念するかもしれない。これもまたひとつの運の引き受け方である。こうした複数の引き受け方のそれぞれについては「これが正しい」や「これは間違っている」などとは言えない。「正しい/間違っている」と割り切って語ることができないのだが、それでもなお、ひとはいずれかの引き受け方を選ばざるをえない。
 [*] 古田『不道徳的倫理学講義』、三二四頁
《運をどう引き受けるか》は当人次第だ――この指摘が重要になるのは「成功」について考える場合である。先に述べたように、「よい」とされる環境や素質をたまたま与えられた者は「よい」とされる人生を歩む。はたしてこうした「成功者」は自分の「成功」にかんしてどう考えるだろうか。一方で彼あるいは彼女は「この成功は自分の実力の産物であり、自分は偉大である」と誇ることもできる。他方で彼あるいは彼女は「これは自分がたまたま恵まれていた結果に過ぎない」と首を垂れることもできる。どちらも運の引き受け方のひとつであるが、どちらを採るかで無視できない違いが生じる。ここでも「正しい/間違っている」は割り切って語れないのだが、それでも違いはあるのである。
このように、《運をどう引き受けるか》は当人次第だ、という点を押さえることは重要である。ただし――本稿の最後の指摘だが――この点についても〈割り切れなさ〉は残る。そして、この究極の〈割り切れなさ〉を見据えるのが古田の哲学だ、と私は解釈する。この点は『不道徳的倫理学講義』のテクストで明示的に述べられているわけではないが、それでも彼の哲学が内含する事柄だと思う。以下、紙幅も尽きかけているので、手短にこの点を説明しよう。
たったいま、「自分は偉大だ」と驕った仕方で運を引き受ける成功者と「自分は恵まれていたのだ」と謙虚な仕方で運を引き受ける成功者とのあいだには無視できない違いがある、と指摘された。とはいえ《ひとが運をどのような仕方で引き受けるか》はそのひとの気質や性格によるのである。それゆえ、たまたま倨傲な性格を与えられたひとは驕った仕方で運を引き受け、たまたま謙抑的な性格を具えているひとはへりくだった仕方で運を引き受ける。要するに、《運をどう引き受けるか》という内面の領域へ後退したとしても、何かしらの〈主体がコントロールできるもの〉が見出されるわけではない。
ここでは「運が支配する(luck rules)」という事態が成立している。じっさい、人間の生への運の浸食は全体に及んでおり、どこかの領域にかんして《ここは完全に主体のコントロールに服す》と言えるようなことは決してない。古田の哲学はこうした運の浸食性へ目を向けさせる。そしてそれは、《運をどう引き受けるか》という自分にとっての根本問題にすら運が関与する、という事実を暴露する。この事実のうちには次の〈割り切れなさ〉が見出されるだろう。すなわち、或る成功者はたいへん好ましくも「自分がうまくいったのはたまたま恵まれていたために過ぎない」と考えている――とはいえ彼がそのように考えるのはたまたま好ましい謙虚な性格を具えているからだ、と。何だかモヤっとする話だ。
ここで重要なのは以下の点である。
《自分が運をどう引き受けるか》も根本的には運の産物だと言わざるをえないのだが、その事実を知ったとしても、自分に降りかかった運をどんな仕方で引き受けるかという課題を放棄することはできない。例えば、私にかんして言えば、非常勤の身分を強いられていることを自分の「運命」と見なして、その立場から何かを発言するという道を選ぶこともできる。ただし――古田の哲学が指摘することだが――こうした選択は「運の支配」の中で行なわれており、決して《一切の運から独立に自分の意志の力だけで選び取られた》などと誇ることはできない。むしろ、《運をどう引き受けるか》にたいする自分なりの答えを与えるさいにも、《自分の答えは運の産物だ》という自覚をもつことが肝心なのである。
何が言いたいかと言えば次だ。すなわち、《運をどう引き受けるか》を「自分のコントロールできる事柄」と見なしてその仕方を選ぶことと、《運をどう引き受けるか》への自分なりの答えを与えることすら運に支配されていると自覚しながらその仕方を選ぶことのあいだには無視できない違いがある、と。古田の哲学はひとを後者の境域へ引き入れる。《そちらのほうが正しいかどうか》などは決して割り切って語れない。だがいずれにせよ古田の哲学はひとをその境域まで、すなわち〈運の支配を徹底的に直視しながら自分の生き方を選ぶ〉という境域まで連れて来てくれるのである。

山口尚『〈割り切れなさ〉再訪――道徳的運をめぐるネーゲルと古田徹也』

*2 私の本note記事に対する山口先生のリプライの文章も、山口先生のnoteアカウント削除により読めなくなってしまったので、ここに張り付けておきます。
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みや竹さんへのリプライ
山口尚
2023年7月31日 11:08
みや竹さん(以下、敬称略)は、いわゆる「自由意志の問題」に自ら悩むことを機縁として、この問題への独自の対処を練り上げた。それはふたつの基礎的な区別、すなわち第一に「自/他」の差異、そして第二に「たまたま/現に」の対比をフィーチャーするものであり、独特な対処法になっていると言える。みや竹は、その観点にもとづいて私の議論を批判する――以下では、はじめにみや竹自身の見方を確認し、その後で彼の批判に応答したい。なぜなら彼の見方はそれ自体取り上げて考察する価値が大だからである。
本題に進むに先立ち文脈を確認する。
私は今年の三月に「時間・偶然研究会」で、自由意志をめぐる発表を行なった。そのさいみや竹からいくつかのコメントをいただいた。それらは次でまとめて提示されている。
本ノートはここで展開されるみや竹の議論への(再)リプライとして書かれている。みや竹の叙述のうちで私が重要と考える流れを抜き出し、それに応答することにしたい。
《以下でどんなことが問題になるのか》をさしあたりの仕方で定式化おこう。それは自由意志や責任にかかわる問題である。
私にかんしてさまざまなことが「たまたま」であるように思われる。例えば《私が教師をしていること》はたまたまである(私は、教師ではなく、どこかの会社で営業を行なっていることもありえた)。また《私がnoteを書いていること》もたまたまである。さらには《私が山口尚であること》もたまたまであろう。
加えてサイラスにかんしてもさまざまなことが「たまたま」であるように思われる。例えば《サイラスが殺人を犯したこと》はたまたまである。、また《サイラスが殺人を犯せないくらいに臆病な人間でなかったこと》もたまたまである。さらには《彼がサイラスであること》もたまたまであるかもしれない。
さて――問題であるが――サイラスをめぐる「たまたまさ」はただちに責任についての哲学的問題を提起する。〈殺人を犯した〉というのがサイラスにとってたまたまであり、殺人を犯すかどうかが彼のコントロールを超えていたとすれば、私たちは彼に殺人の責任を帰す根拠を失う。その結果、彼を責めたり罰したりすることは正当でなくなる。こうした点についてどのように考えればよいのか。
こうした問題にたいしてみや竹は、「たまたまさ」の問題は究極的には〈私〉について以外には生じない、と指摘する。いや、より正確に言えば、〈私〉についてだけ生じる根本的な「たまたまさ」の問題があり、この問題こそが真に追究されるべきものだ、となるだろうか。こうした指摘を導き出す議論を私なりに再構成すれば以下。(ちなみに以下、「私」という表現で、永井均が長年問題にしてきたところの〈私〉を意味する。私がそれを熟知しているとは言えないが、いずれにせよこのタイプの〈私〉を取り上げる。この〈私〉の概念がピンとこないひとにとっては、以下の議論もまったくピンとこないことになるだろう。)
私(すなわち〈私〉)にとっては、山口尚という人間を形づくるあらゆるものがたまたまである。これにたいして、私以外の何ものについても、こうした「たまたまさ」はない。例えば、サイラスにとって、サイラスという人間を形づくるあらゆるものはたまたまであろうか。たしかに――必要な留保として――〈サイラスという人間を生み出す因果系列〉は生じることもできたし生じないこともできた(それゆえサイラスをめぐってもいわば派生的な意味のたまたまさは存在する)。だが、「サイラス」という名で指される対象は問題のサイラス以外にない以上、サイラスにとってサイラスであることは「たまたま」ではない。じつに根本的な意味の「たまたまさ」は〈私〉にかんしてのみ生じるのであって、〈私〉以外の何ものについてもこの種の「たまたまさ」はない。
以上の要点は以下のようにも敷衍できる。一方で「もし私が山口尚でなかったとしたら……」という条件節は有意味である。なぜなら〈私〉にとって山口尚であることはたまたまだからだ。他方で「もしサイラスがサイラスでなかったとしたら……」という条件節は空回りする。なぜならサイラスにとってサイラスであることはたまたまでないからである。
こうした自他区別から目を逸らさないこと――これがみや竹の立場の基調である。みや竹は「自」と「他」を分ける眼差しのもとで自由意志をめぐる問題に取り組む。その結果、この問題へどう対処するかは「自」のケースと「他」のケースで変わってくる。以下、それぞれどう処理するかを見ていこう。
まず「他」のケース。たしかに〈サイラスという人間を生み出す因果系列〉は生じることもできたし、生じないこともできた。この意味でサイラスの存在はたまたまである。だが、たとえこの意味で「たまたま」であっても、サイラスという人間は現にあるような人物であって、彼は「現に」殺人を犯している。すなわち、サイラスが存在するかどうかはたまたまだが、彼は「現に」こうしたことを行なう人間である以上、彼へ責めや罰などの対処が行なわれることも決して恣意的ではない。一般に、あるひとが存在するかどうかは偶然的であるが、そのひとは「現に」一定のあり方をしており、その「現に」あるあり方に応じて責められたり称賛されたりする。
かくしてみや竹の見方では、自由意志をめぐる問題は、「他」のケースでは比較的簡単に処理される(彼がこの見方へ至るまでは、彼自身語るように、長年の苦悩があったのだが)。押さえるべきは、他者の存在には無視できない偶然性があるのだが、それでもこの「たまたまさ」は責任の問題を引き起こさない、という点だ。なぜなら、その他者が「現に」あるあり方はそのひとにとって決してたまたまではないので、その「現に」あるあり方にかんしてその他者を責めたり褒めたりすることは恣意性を含まないからである。
だが「自」のケースは難しい。そして《ここには追究すべき問題がある》というのがみや竹の積極的な主張である。以下、見ていこう。
私にとって山口尚であることは根本的な意味でたまたまである。もちろん《現実的には、私は山口尚だ》と言える。とはいえこの「現実性」は、私にとっての山口尚であることの「たまたまさ」を取り除かない。それゆえ、山口尚であることに由来する悪徳のために私は現実にさまざまな悪事を行なっているが(と仮定する)、その悪事にかんして私はどこまでも「たまたまだ」と自己の無責性を主張できる。〈私〉は、その存在論的な構造にもとづいて、その「現にある」存在的なあり方の責任からつねに「脱却」できる。言い換えれば私をその「現にある」あり方にかんして責めることには、払拭不可能な恣意性があるということだ。
押さえるべきは、「他」のケースでは責任帰属の恣意性が(一定の仕方で)否定されえたが、「自」のケースでは責任帰属の恣意性がどうしても残る、という点だ。そして前段落で展開した「たまたまさ」の問題は「自」に特有である。みや竹はこの点を「ヨコのたまたま論のタテ化は必然であるとは言え、タテ化され切ることはない」という仕方で説明する。その議論は以下。
はたして私は、私が山口尚であることのたまたまさから、サイラスがサイラスであることの(同様の)たまたまさを推認することができるだろうか。答えは「究極的には、できない」となるだろう。なぜなら、突き詰めると私にとって「サイラス」が意味するのはサイラスでしかありえず、この非対称なあり方を対称化し切ることはできないからだ。かくして究極的な意味の「たまたまさ」の問題は〈私〉にかんしてのみ生じると言える。――ここからみや竹は、「自/他」の区別を無視して「たまたまさ」の問題を論じることはうまくいかない、と主張する。
――以上がみや竹の見方の(私なりの)まとめである。ちなみにみや竹は以上の「たまたま論」の加えて「無意志論」についても論じているが、このノートでは後者の議論を取り上げるのは控えたい。その理由は、後者の議論に重要性が少ないからではなく、もっぱら煩雑さを避けるためである(そして、分量から言って、「たまたま論」こそがみや竹の議論のメインパートだと思われる)。
私は、みや竹による事態の整理はそれ自体で有意味であり、「不必要な」不整合を呼び込まない仕方で整頓されている、と言いたい。かくして、私がみや竹へ異論を述べるとなると、彼の見方へそれとは異なる整理整頓の仕方をぶつけることになる。私は率直に、私の語彙体系のほうが素朴であり、内的な不整合を被りがちだ、と認めたい。――とはいえ私はこのところずっとそうした語彙体系で思考してきたし、今後もさしあたりこの体系で考えていくことになると思う。
自由意志を語るさいの私の語彙体系は「自/他」の区別を強調しない。その結果、そこでは、山口尚の自由、サイラスの自由などが論じられるが、〈私の自由〉という特筆すべきものはフィーチャーされない(とはいえこの唯一無二の自由が特筆すべきものであることは認める)。その結果として、私の語りは一定の不整合へ入り込んでいくのだが、この「不整合なフィールド」こそが私がさしあたり生き抜きたい現場なのである。
ではどんな感じで不整合へ入り込んでいくか。それは以下のような仕方である。
私は《私は自由でないのではないか》と疑う。この疑いは、私の語彙体系では、《山口尚は自由でないのではないか》という疑いと変わらない。だが、もし私(山口)が自由でなければ、その場合、この疑いは〈考える〉という能作の一種ではなく、むしろただ生じる出来事(いわゆる自然現象)の一種となる。こうなると、疑うという行為、そして疑っている行為主体などが消滅し、〈私が疑っていること〉が自然現象のうちに融解していく。その結果、自由意志の問題を考えること、そして問題自体が消滅してしまう。いや、もはや《それを問う主体がいない》という形で、問題が完成されると言うべきか。とはいえ私(山口)はそうした問題を問い、そして考えているのであるが……。――こうした絶えざるアスペクト変換を引き起こすフィールドが、私が頑張りたい現場である。
みや竹は長年の思索の結果として「自/他」の区別を基礎とする言語体系に到達したと思われるが、私のほうは私のほうで少なくとも現時点において別の語彙体系に住んでいる。そして、みや竹が私の語り方に「不十分さ」を見出すことも、私は決して「ゆえ無し」とはしない。いずれにせよ、私とみや竹のあいだのちがいは、いろいろ考えた末に至ったところの問題の整理整頓の仕方の差異として説明されると思う。それゆえ、みや竹の捉え方において、彼から私へ向けられた批判はどれも正しい。その一方で、《私は自由でないのではないか》と《山口尚は自由でないのではないか》とのあいだにさしたる違いを認めない語り方もあり、私は現にこうした語り方に住んでいる。そして私は、そこで不可避的に自己矛盾しつつ(なぜ自己矛盾するかと言えば、この語り方においては「私」という特筆すべき場が確保されていないために、自由の存在への疑いがただちに「疑い」と呼びえぬたんなる出来事・自然現象へと転化してしまうからだ)、〈思考が思考でなくなるアスペクト転換〉をめぐってあれこれ考えているのである。
かくして、私(山口)は考える、だがこの考えはたんなる出来事だ、いや、これをたんなる出来事と考える点で私(山口)は考えている、とはいえこの考えもたんなる出来事だ、おっと、これを出来事と見なす「高階の」考えが存在するぞ、とはいえこの考えもたんなる出来事だ……とシーソーゲームを繰り返す「弁証法的な」フィールドが私の語りの場だと言える。これは〈私〉というものをフィーチャーするのとは違った道行きだと思う。そして――これがみや竹のコメントの発端であったが――私の先日の発表も、こうしたシーソーゲームの視点から読み解いていただければ、何かしら得られるものがあるのではないかと思う。

山口尚『みや竹さんへのリプライ』

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