一枚の色紙 その1

羽生善治は将棋がやたらと強い。
行方尚史が挑戦者となった名人戦、解説会場に両者のプロフィールが貼られたが、行方の棋歴は用紙一枚に余白を残すも羽生のそれは用紙三枚に及び、並べられた行方がちょっと可哀想だったくらい強い。

強いからお金持ち、趣味はチェスと寄付、周囲の誰もが褒め称えずにいられぬ人格者で、眼鏡の下の豊かな睫毛に縁取られた大きな瞳は鋭く対局相手を見据え、トップアイドルのハートを射抜く。婚約発表から20年にして妻を「りえちゃん」と呼ぶ円満な家庭の主は、おみくじをひけば大吉、生命線は長くのび、血液はサラサラ、枕だって良い匂い、貧乏大臣大大臣では大大臣。
羽生はほとんど完璧。ほとんど。

この文章のテーマとなる色紙はこちら。ドン。



羽生が書く字を、その比類なき独創性を愛するファンたちは「羽生フォント」と呼びはじめた。


以降の文章に出てくる、羽生が常人にあらざるが故にもたらされる事象の度に羽生の凄さを説明しているとちっとも話が進まないので
「羽生は日本一賢い」
ということにする。そういう前提で、日本一賢い羽生の筆による一枚の色紙をじっくり見ていきたい。

羽生がいかに素敵かという話は山とあり、しかし羽生がいかに素敵かを語るファンも山といるので、私は他の方が語らない部分を、羽生家の隙間家具と隙間家具の間に積もる埃を集めてまわる。それでもひとつだけ、私が好きな羽生のエピソードを。

羽生が人生でたった一度、母に相談したこと。
「ちょっと、田舎に墓参りに行こうかどうか迷っているんだけど、どうかな」

キャー!キャーキャー!素敵!WE LOVE  YO!SHI!HA!RU!

太田光に、政治に関して「おれだったらこうするとかないですか」と聞かれた羽生は「ああいうものは情報が開示されてないですから」と答えた。
自分が一番その情報を持っている自身のことを、他者に相談し決定を委ねる必要はない。その判断力を、日本一賢くなる前から羽生は持っていた。靴紐もうまく結べぬ頃から、母に相談すべきことなど何もなかった。

つづく



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?