「冬の恋人たち」(小説)


「冬の恋人たち」

* * *

それは深い雪が降った日のことだ。僕は校庭で一緒に遊んでいて怪我をした友人の見舞いに行った。当時、僕ら3人は、何気なく一緒につるむようになって、捉えどころのない漠然とした 高校生活というものを、よくわからないまま一緒にふらふらしていた。

友人の一人が、 休み時間に遊んでいるうちに、校庭で怪我をして入院した。たった2人になってしまった僕らは、 暇と寂しさを紛らわすために、その病院へ足繁く通った。それ以外に、放課後でするべきことも、 たいして思いつかなかった。結局のところ、学生時代の僕には、ごく親しいと呼べる友人は彼らしかいなかったわけだ。

その病院は、山の中、と言ったような、郊外の高台にあった。まるで、あまりに大きな屋敷を、 無理をして山にあらがって作ったように、生い茂る森に囲まれて、かろうじて、その灰色のコンクリートで出来た姿を、遠くからでも確認するほどに見せていた。僕らは、雪の降る坂道を、話すこともなく半時ほど登って、そこへたどり着いた。 

* * *

午後の病院は静かで、ロビーに座っている人は、料金支払いか、 薬を待っているだけで、テレビから流れるつまらないニュースが館内に響いていた。 受付でいつものように記帳をしながら、係りのおばさんに、また来たの、学校は暇なのか、面会期限までには帰れ、などと何十回も聞いただろう会話をくり返して、やっと人心地のつくロビーに入った。清潔ではないが、 暖かい空気が流れて来る。

友人は僕にお菓子を買って来るように言って、階段を登って行った。お見舞いのお菓子は、だいたい300円程度のものを、交替で彼と買って行くことになっていた。そうはいっても、食欲のたいしてない病人の前で、僕らが殆ど食べてしまう、スナック菓子とポッキー、ハッカ飴を買って、ロビーをまっすぐに横切って行った。

ふいに僕は、いつもとは違う経路で、彼の病室へ行ってみようと思いついた。外に面した廊下は、 雪明かりでほんわかとした光に満たされていて、それでも、完全に冷気を防ぐことはできないのか、ひんやりとした空気に包まれていた。僕は、そこで彼女を見つけた。
緑色の床が雪の明かりに照らされて、そこに彼女は立っていた。

ピンク色の柄がついたパジャマに クリーム色のカーディガンを着ていた。彼女は雪を見ながら、少しも動こうとしなかった。まるで、 その廊下は、真っ白になった窓と一緒に時が止まっているような錯覚におそわれた。 僕は、まるで、金縛りに合ったように、動くことが出来なかった。その静寂があまりに神聖に感じられて、破ることを畏れたのだ。ただ、僕は彼女の後ろ姿をずっと眺めていた。彼女も少しも動こうとはしなかった。ずっと窓の外にある何かを見つめる彼女は、白い風景の中で、止まったように見えた。でも、ずっと見ているうちに、 少しずつ、彼女が呼吸をしている、わずかな動作が服の上から感じられるようになった。それはゆっくりとした呼吸だった。

今、この世界全体が、そんな微かなリズムで振動しているように感じられた。
声をかけようと思った。なぜ? 名前も、顔さえ見たことのない人間に?

「何を見ているのですか」
震えていた。まるで僕の声とは思えなかった。しまった、と思ったときには、 遅かった。それまでの完全な静寂は破られ、彼女はゆっくりと首を回して僕を見た。

* * *

少し乱れた髪の 向こうから、まっすぐに穢れのない二つの瞳が僕を見つめていた。そんな無防備な瞳にさらされたのは、 生まれた初めてだった。僕は立ち尽くして、息を呑んだ。その瞬間は永遠に思われた。その瞳の向こうの 彼女という存在が、この時間と空間の向こうで、確かにこの世界に息づいていることがはっきりと感じられた。

彼女の頬の肌は、雪のせいか、とても白く見えたが、赤くはれたほっぺたが、この世の存在であることを印していた。やがて彼女は、ゆっくりと再び、窓の外へ目をやった。 僕は、その時、僕が、この静寂に彼女と共に存在することを、許されたように思えた。僕は、この白さと 静けさを、彼女と共に感じる特権を許されたように思えたのだ。だから、僕がここで何かを言うことが 自然に思えたのだ。

「何を見ているのです?」僕は抑えた声でいった。
「雪を、雪を見ているのです」彼女は言った。
「天上で離れた雪が、こうして地上で再び出会えるのをずっと見ているの。
遠く失われた絆が、再びここで結ばれるのを、私はずっと見ている…。」

「雪が雪を待っている」
「雪が雪を待っている」僕と彼女の口から同時に同じ言葉が出る。それは、古いイギリスの詩だった。

「あなたもその詩をご存知なのね。」彼女は、窓を見つめたまま話し続ける。
「雪が雪を待っている。そう、白さが白さを求めるように、この世界が白く閉じて行く。 私は、こうして、世の中の外から、そうやって世界が白く隠されていくのを見続けてい る。 それはずっと昔に決められた約束事のように、私はただ、彼らを見守っている。」

それから少しの間、僕も彼女も何も話さなかった。そして、彼女はゆっくりと歩き出した。 病院の刷り切れたスリッパを引きずるか細い音が廊下にこだました。

僕は、その姿を見送る。それは、まるで完成されたフィルムを何度も見返しているように、ゆっくりと鮮明に浮かび上がる。今でも僕の脳裏にはっきりと焼きついている。窓の外には、一面の雪、 彼女のピンク色のパジャマとクリーム色のカーディガン、深い緑の廊下…。僕は、ただ一人残される。

何かが起きたようで、まだ何も起きていない、そして、何もなかったかの時間のように。 僕は再び、廊下を引き返して喧騒の中に戻って行く。
息が苦しい。胸が激しく鼓動する。僕は菓子袋を抱えたまま、病院の出口を出る。
雪が僕の上に積もる。そうだ、と僕は理解する。僕は恋に落ちたのだ。

                
(冬の恋人たち 終わり)

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