小説「さざなみ」

第一章

私の名前は小牧佐智子。高校一年生。名前はまだない、じゃない。名前はある。佐智子。私はこの名前が気に入っている。一つの音に一つの漢字が割り当てられているのが素敵だ。私は私自身が好きか、わからない。でも、私ではない人は私が嫌いなようだ。私の中にある何がそうさせるのか、わからないが、友達は、まだない。でも、入学して一週間だ。もう少ししたら、出来るかもしれない。私は駅を降りて、家路へ歩く。坂を1キロメートルほど登らないといけない。結構、急だし、他の人が登ったら、いつも、はあはあ言っている。でも私は平気だ。ずっと小さい頃から、たくさんの人に私は手をつないでもらって、この坂を下りては登って来たから。近道になる石段だって、私には常用のコースだ。私は、坂を登りながら、いろいろな物語を考えるのが好きだ。

冬の吹雪の中だ。若い男女が向き合って何かを喋っている。女の子が必死に男の子に叫んでいるのだけれど、何も聞こえない。ただ、吹雪、吹雪があるだけだ。それだけの情景を、この一週間ずっと思い浮かべている。なぜ、二人は吹雪の中に佇んでいるのか、女の子は何を叫んでいるのか、男の子はどうして何も応えないのか、そして、私には何故、何も聞こえないのか? 坂を登り終わると、今度は平らな道を山に沿って歩いていく。この道は、この時間には、真っ赤に照らされてとてもきれいだ。ここからは海が見える。朝には、鳶色にうつむいていた海も、夕方には嘘みたいにきらきら微笑む 。私は、そんな軽薄な海が好きだ。ここからは波の音は聞こえない。でも、こうやって海を見ていると、あのキラキラした光の向こうから、そっとさざなみの音が聴こえて来る気がするんだ。

冬の吹雪の中だ。若い男女が向き合って何かを喋っている。女の子が必死に男の子に叫んでいるのだけれど、何も聞こえない。ただ、吹雪、吹雪があるだけだ。

物語はいつか始まる。私はその時をじっと待っている。
第二章

朝、目が覚める。4月だけど、ちょっぴり肌寒い。今日は風が強い。お母さんはもう起きている。コトッコトッと、朝食を用意する音がする。私は眠い目をこすりながら、急な階段を降りて(普通こんな急な階段は目をつぶって降りられないがそこは経験というもの)顔を洗って、キッチンへ行く。
「お母さん、おはよう」
「おはよ」
何気ない会話。お母さんはときどき機嫌が悪くないけど、そっけない返事をすることがある。そりゃあ、いきなり朝から満面の笑みを浮かべて、おはよう、なんて、どこかのアメリカのホームドラマみたいなことをされても驚くけれど、もう少し愛想よくてもいいはずだ。何しろ、私はカノジョのヒトリムスメなのだから。
「お母さん、今日の朝ごはんは何?」
「えー、普通の鮭だよ」「おとうさんは?」
「まだ寝ている。昨日、遅かったみたいだから、寝かせてあげて」
「うん…」
父は港で働いている。かと言って、海の男ではない。港に来る荷物を管理する会社の仕事をしている。書類を書いたり、荷物を確認したり、そういう仕事だ。父は、荒々しい海の男というよりは、実直なサラリーマンと言った人間だと思う。真面目で、規則正しく、普通に得られるものが得られれば、特に文句を言わない、そういう人間だと思う。
思う、というのは、父は無口なので、あまり会話というものをしないのだ。テレビに向かってごにょごにょと言うことはあっても、私と長いおしゃべりをすることはない。私は父のそういうところが好きでない。だから、おしゃべりな男の子が好きになるのも、その反動かもしれないって思う。
私は、塩辛い鮭とごはんを食べて、食器を流しに入れて、二階に鞄を取りに行く。制服に着替えて、玄関へ向かう。
「お母さん、行ってくるよー」
「はあい」
 奥で声がする。母は駅前のスーパーマーケットで週に4日ほど働いているが、今日は非番の日なんだ。ゆっくり休んで欲しい。
家を出た途端、びゅっと風が吹いて来て木々がざわめく。家の前のクヌギの木で囲まれた石段を降りると、山に沿った道に出る。その道に出ると、さああと視界が広がって、大きな大きな水平線が向こうに、パノラマのように広がっているのが見える。風が吹いているけど、海はとても静かなようだ。私は、歩きながら、遥かに横たわった海を眺める。いつか自分もあの海を超えて、この街を出ることがあるのだろうか? それとも、ずっとこの街で、この海を見ながら生きて行くのだろうか? 母はこうやって毎日を暮らしていて幸せなのだろうか? 父はどうだろうか? 父は疲れる以外にすることがあるのだろうか? 
やがて、降りる石段まで来て、私は海から目を離し、暗い松の林の中を降りて行く。ここを降りて、街の喧騒が始まる。駅までは、たくさんの人がひしめきあって歩いている。日常が始まる、そんな号令を聞いているように、車が脇を通り抜けて行く。今日は、学校で友達が出来るだろうか?

冬の吹雪の中だ。若い男女が向き合って何かを喋っている。女の子が必死に男の子に叫んでいるのだけれど、何も聞こえない。ただ、吹雪、吹雪があるだけだ。

物語はいつ始まるんだろう? それは誰の物語なのだろう? とうに忘れ去られた理由で動いている二人の主人公たち、もう誰も覚えていない場所で、必死に戦っている少年と少女、かろうじて、私の頭の中に引っ掛かっているこの物語は、どうやって私の中に来たのだろう。でも、少しだけ、この物語を考えているうちは少しだけ、この平凡な自分が他人と違う、特別な人間になった気がするのだ。電車に乗り込む。海辺に沿った電車が、私をこの街よりもっと大きな街に運んでいく。そこには私の高校がある。今日は隣の子と話せればよい。
第三章

朝の学校の時間は嘘みたいに過ぎて行く。教室に差し込む日差しが、部屋いっぱいを光に変える。私はぼんやりと何を見つめるともなく見つめる。たくさんの女生徒が慌しく動いているのに、私は机に座って片足を地につけながら、自分の半分がまるで、何処か遠い世界に運ばれているのを感じる。
数学は苦手だ。数学は私を遠くへ運んでくれない。国語や古典の時間は好きだ。私は、ここにいる誰よりも、先生よりも、ずっと遠く、ずっと昔へ、或いは、ずっと未来へ、ずっと著者の心の中へ飛び込んで行ける気がする。

昼休み。私は一人、机を見つめる。私は一人だ。お母さんが作ってくれたお弁当を出す。まだ、ほんのり暖かい。少しだけ、少しだけ心に血が通う。私はわざと、面倒くさそうに、おかずを一つずつ一つずつ口元へ運んで行く。そうやって誰かが話しかけてくれるのをできるだけ長い時間待つんだ。十分が経ち、二十分が経ち、誰も私に話しかけてはくれない。私は眠そうなふりをして、うつぶせになって眠ったふりをする。目をつぶると教室の隅々から様々に楽しそうな話し声が聞こえて来る。昨日のTVの話、次の授業の宿題の話、共通の友人の話、クラブ活動の話…。全て馬鹿馬鹿しい。私には何の関係もない。私はただ、私に話しかけてくれる友人が欲しい。

遠い場所で声が始まる。吹雪の中で一人の男の子が私を呼ぶ。
声は届かない。私も吹雪の音に打ち消されながら叫んでいる、
私たちは手と手を合わせて僅かなぬくもりを伝え合って、
何かを叫びあってるんだ。

春のやんわりとした夕暮れの日差しがまっすぐに教室の窓から入って来る。その光は教室を光と闇の二つに分けて、私はそんなコントラストを、教室の隅からじっと見つめている。先生の声、カリカリと鉛筆を打つ音、ノートをめくる音、私の吐息、私の鼓動、何かが始まりそうで、何も始まらないもどかしさのような、悔しさのような、甘いような、苦いような、とどめたくてとどめられない時間が流れていく。何処かどうしうようもなく、取り戻せない場所へ向けて。

チャイムが鳴る。全ての音が鈍くかき消される。先生が授業の終わりを告げる。「今日はこれまで」 そういうとみんな鞄を持って颯爽と教室を出て行く。みんな何か用事があるのだろうか、私は特に急ぐ用事がないのに、居心地が悪い。机から教科書を取り出してもたもたと鞄に詰めて、ようやくがらんとした教室を出て行く。夕日がまぶしい。影になった校舎の脇を抜けて、校門へと歩く。私の影は長く長くグランドに影を落とし、私の身体はオレンジ色でいっぱいになった大気の中に溶ける。校門を出たところで私はため息をつく。

結局、私は、今日も誰とも話すことが出来なかったのだ。

第4章

駅を降りる。塩辛い海の音と風が私を迎える。スカートが風に翻るのを抑えながら、水平線を見渡す。海岸の向こう側には夜の帳が天上からまっすぐに降りて、オレンジ色の空を海に向かって抑えつけている。

この空に溶けてしまいそうな弱々しい私、その前に風に吹き飛ばされそうな身体。春の海辺は風が強い。それでも、私は堤防の上を登って歩いていく。家からはまるで方向が違うけれど、一人でいる時間をもう少し延ばしていたい。私は今日一人ぼっちだったけど、一人でいることにも、みんなと一緒にいるような意味があるかもしれない。答えを求める。でも、堤防はやがて松林の中に吸い込まれていく。それ以上堤防の上を歩くことは出来ない。車が来ないか確認して、ひょいと道路に飛び降りて、とりあえず塗装された狭い坂道を登って行く。
坂の上の空はもう真っ蒼になって、ぼんやりとした大気の向こうに星がまたたいている。あんなに綺麗なものがあるのに、私は足元を見ながら気をつけて歩かねばならない。この地上を生きるということは、そういうことなのかもしれない。

松の林の坂道の前にたどり着く。私はその暗がりの中へ入って行く。あらゆる光を遮断して、松のトンネルはひときわ夜空を輝かす。私は「わー」と叫びたくなる。でも、叫べない。恥ずかしい。誰かに見られているかもしれない。誰も見ていないのに。私は自分が情けなくなって目を閉じる。

吹雪の中で男の子が去って行く。彼の叫びは私に届かない。
私の叫びも彼に届かない。きっと彼が伝えたかったことと、私が彼に伝えたかったことは同じなのに。
私たちは、この吹雪の中で、お互いが一人じゃないことを、
お互いを思うだけで、心が温まることを、伝え合いたかっただけなんだ。

私の頬に涙が伝う。もうすぐ、松の林を抜ける。
そしたらまた夜の下のきれいな海がそこから見えるかもしれない。

                                        

(終)

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