「原の城」について

「原の城」は2015年9月に上巻を発行
2016年7月に上巻分と下巻分を一冊にまとめて発行しました
島原の乱を舞台にした作品です

(きっかけ)
前作「霊廟の扉」を描くにあたってキリシタン関係のことを調べるにあたり、島原の乱にも行き当たって興味を持つようになりました 
その際、山本タカト氏の「天草四郎時貞、島原之乱合戦之図」の絵を初めて見たのですが… 
愛憎渦めくというか、人間の深い根の正体みたいな部分が滲み出て…なんか凄くてですね(語彙力ゼロ)こんな感じの漫画が描きたい!となりました
それがきっかけとなります


(あらすじ)
山賊くずれの男・道允は、キリシタンの少女(詩乃)と出会う。
詩乃が農民一揆に参加することを知り、道允は彼女を救うべく自らも一揆に加わる。
元々信仰心のなかった道允だが、仲間らと共に原城に籠城し、彼らの信仰心を間近で見ていくうちに心が折れていく。
信仰を守りたい詩乃と、詩乃の命を救いたい道允。
本当に守るべきものは何なのか、道允は分からないでいた。


詩乃は農民一揆に参加するといって張り切っている


総大将である四郎に直接詰め寄っていく道允


四郎は松倉への恨みが深く、必ず首をとることを願っていた


原城内では誰の目も気にせずオラショが唱えられるから幸せだと、詩乃は言う


読み返してみると、シリアスばかりでなく意外と緩いギャグ(ギャグというほどでもないが)が散りばめられていて、「そういえば話が暗くなりすぎないように気を付けてたな」と思い出すなどした
イマイチだなと感じていたシーンも、通しで読み返すと案外悪くなかった
所々中二っぽい痛々しさもあったりするんだけど、まあそれはそれで…




棄教したらその魂は救われない(とされている)ので
キリシタンとして散った息子と同じ場所に行くことはないと思うのですが
敢えてそんなセリフを言わせました

その前の方のページでも、詩乃の父(キリシタン)が自害を仄めかすセリフを言っています

今までは創作の際「人物の言動や考え方に矛盾がないように作品を作らなければ」と考えていました。キリシタンであればキリシタンらしく、その教義に忠実な思考を持った人間として描くべきだと。
それが彼らに対する礼儀だとさえ考えていました。

しかし人間なんてそもそも矛盾を抱えた生き物であり、こんな非常時にいつまでも冷静さを保ていられるとは到底思えないし、全然リアルじゃない。
矛盾があって当たり前なのだと、初めて自分を納得させて描くことができました。

例えばムシカの3巻の親賢と親虎の言い争いのシーンでも、わざと整然としない台詞回しをさせてます。
良いか悪いかは別として、自分がただそういうのを好むんだと思う。


私はこの「原の城」を描きながら自分の想像力のなさに日々打ちのめされていました。

実際の島原の乱のエピソードとして、落城時に火の中に飛び込み自害した人たちの話や、死を目前にして咄嗟にクルスを口に飲み込んだ人の話などを聞くと、言葉では言い表せない悲しみが込み上げてくる
どんな思いでそうしたのだろうと

生涯かけて貫いてきたものを一瞬にして失う怖さも、耐えろ耐えろと言われ続けて、ついに刃向かって、でも自由を手に入れたのも束の間で、お腹が空いて、最後は殺されて…
それを無念に思うか誇りに思うか、何も経験していない私には分かりません

だから彼らの思いを代弁することはできないけど
「せめて色んな立場の人々を描こう、島原の乱は全員が主役なのだ」
「この漫画を描き切るまでは絶対に死ねない」
と強く決意したのでした

苦しみながら描いたけど、あのときなりの全力を振り絞って妥協することなく最後まで頑張れました
特にラストシーンは泣きながら描いた記憶がある

私は島原の乱を調べることでそれまでの人生の価値観をひっくり返されたし、創作においても原の城が一つのターニングポイントになっているように思います


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