小沢健二 Breakthrough

以前も書いた気がしなくもないが、私は小沢健二の大ファンだ。が、彼が新曲を発売した事も、テレビ出演したことも、今朝友人からきたメールで知った。日経新聞に情報の全てをゆだねている弊害あらわる。

とにかく、タワレコでCDを買い、ネットでMステを見て、もう寝ないと明日は読書会なのに、どうしてもこのフレッシュな感覚を書き記しておきたい衝動とまらず。

ネット上では劣化だジジイだ、復活だ今までなにやってたんだ、子育て資金だ、やっぱかっこいいだ、色々言われていますが、個人的には、またテレビに出るようになった(たまたま?)ことはとても喜ばしい。ライブで限られた人たちに、ではなく、彼の「言葉」は一般的なところに転がっていてしかるべきものだと思うからだ。昔と今では言葉選びにはかなりの変化が見られるものの、やっぱり彼の「言葉遣い」は「J-POP」の中にあってものすごく文学的であり、間接的にものを言い表すという行為の「楽しさ」や「素晴らしさ」を知ることができる。

見た目に関しては、彼の勇気を称えたい。かつては自他ともに認める「王子様」で、華奢ながら長身で肩幅の広い身体に、すっきりとしているもののどこか甘えたところのある顔でサブカル女子の♡を射止めていた彼である。あーだこーだ言われるのを百も承知で、テレビ出演したんだろう。ちなみに、私がMステを見て思ったのは、「ほっぺがふくらんだ」以上。

90年代のオザケンは、ハッピーオーラを身に纏い、世界を「俯瞰」して歌を作っている感じがした。それはまるで「僕の目に、世界はこう映っているんだよ!」と言っているようだった。パフォーマンスも全身を使い、感じた事考えた事をストレートに表現する、楽観的で、その自分の見た景色や感情を音楽で昇華させていた。

だけど、2000年(eclectic)あたりから、地味なライブ活動をしていた時期は、それがなかった。その代わり、世界の「中に潜り込んで」、その中から外を見る視点で音楽を作っている感じがした。詩のメッセージ性はどんどん強くなって、音楽も力強いものが多かった。今思えば、本当に本当の意味での「充電期間」というか、おそらく世界の見え方が徐々に変わっていって、それをじっくり咀嚼して、味わって、確かめて、消化していたのかなあとも思えてくる。音楽で表現する、音楽は世界を動かす、ということを信じている彼だからこそ、自分の中にある「何か」を(それが「何」なのかはわからん)、ある意味実験的に狭い範囲に向けて発信していたのではないだろうか。

そして、「流動体について」だ。90年代とも今までとも違う、「完全に新しい小沢健二」だな、と思った。そして、その「新しさ」は、「過去のオザケン」があってこその「新しさ」だ。感動的なまでに、90年代の彼の、駆け出したくなるようなリズムや言葉が弾け飛んでいる感じが、2000年以降の強いメッセージ性や「重い」言葉選びとぴったりと融合している。ほめすぎ?

完全に個人的な推測の域を出ないけれど、本当に「世界」と向き合って、「世界」について考えて、悩んで、学んで、彼なりの「答え」のようなものが出たのではないかと思う。もしかしたらそれは、結婚したことや父親になったことと関係があるのかもしれないし、ないのかもしれない。だけど、CDのジャケットが「父親の視点」であることや、2曲目の「神秘的」の詩を見ると、少なからず影響しているのだろう。

とにかく、久しぶりに「世間」に出てきた小沢健二は、完全に以前の彼を凌駕しているし、心の中に、とてつもなく強い「ある光」を手に入れたんだな、と思い、そしてまた、1度きりの人生の中でこんなに大きくレベルアップしたことを見せつけてくれるなんて、やっぱり憧れてしまうのだった。


ちなみに私は、「フリッパーズ」および「オザケン」の書く「詩」によって文学に目覚めたので、こういうミュージシャンが世間に存在することは、日本人の言語感覚や言葉への興味の入り口として非常に重要なことだと思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?