甘い酒

その店に入ったのはほんの偶然だった。

出張で訪れたとある町の、駅裏の寂れた飲み屋横丁にある小さな小料理屋だ。営業しているのかも分からないスナックや古いラーメン屋などが並ぶ狭い路地は、恐らく、普段から人通りも少ないのだろう。駅を出た途端の急な大雨で、ホテルに戻るまでの雨宿りのため飛び込んだ適当なのれんの中には、自分以外に客の影はなかった。

「いらっしゃい。お客さん、初めてね」

テーブルがひとつだけの小さな店内だ。七席ばかり並んだカウンターの向こうに四十がらみの女将が一人立っていて、私を見ると目の前のスツールへ手招きした。

「何お飲みになります? うちはこう見えて、いい日本酒を揃えてるんですよ」

和服姿の女将がしなを作って背後に並んだ一升瓶の列を差す。特別美人というわけではないが、妙に男好きのする容姿である。しも膨れのお多福顔に物憂げ気な一重瞼と薄い唇、目の下の泣きぼくろ。どこか幸薄そうで男を切らさずにいられない、そんな印象のする女だった。

じゃあこのあたりの地酒を燗でくれ、と私は言った。急な春の雨に濡れた体が冷え切って、このままでは風邪を引きそうだ。
「ご一緒に何かお食べになりますか?」
「じゃあ、軽い乾きものでも。このあと約束があるんだ、食事に行くつもりだったんだが、この雨ではまた出るのも億劫だな」

ホテルに出前でも取ればいいか、と考えて、香也の膨れる顔が目に浮かぶ。仕事の間、一日中待たせていたのできっと待ちくたびれているだろう。若い女の、子供のように拗ねた顔を思い浮かべると、面倒だがどこか誇らしいような気持ちになった。きっと彼女は可愛らしく怒って見せた後、私を許すだろう。

「あら、デートですか? 羨ましい。きっと通り雨でしょう。じきに止みますよ」
燗を受け取るときにふと手が触れ合った。肉づきのいい、白く柔らかな手だ。女将は私の薬指の指輪をそっと指先で撫でて、ふふ、と意味ありげに笑った。

「それにしても助かったな。この辺り、開いている店が全然ないんだね。タクシーもこの雨で出払っているのか、捕まらないし……どうだい、女将さんも一杯?」
「東京なんかと違って、元々台数が少ないんですよ。あまり賑やかな町じゃありませんから。そうね、こんな日はもう他にお客さんも来ないだろうし、失礼してあたしも頂いちゃおうかしら」

お猪口を傾けると心地よい熱が喉から食道を通り過ぎ、腹の奥へぽっと炎が灯るようだった。まさに甘露というやつだ。こっくりとして甘味の強い、蜜のような酒である。

女将の猪口に酒を注いでやると、ふと、頭上で微かに何かが擦れるような音がした。
おそらく、二階が住居になっているのだろう。子供か男か――さては、商売女にありがちなヒモでも囲っているのかもしれない。現金なもので、下衆な想像をした途端に目の前の女の素性が気になって来た。

「女将さんはこの店長いの?」
うら若いというほどではないが、こんな寂れた場所で小料理屋をやるほどの歳でもなさそうだ。地元の訛りもなく、関東の方の出身に違いない。
何か訳ありなのか――彼女は口を付けかけたお猪口をことりと置いて、ふっと甘い息を吐く。

「そうね。じゃあ、少しお喋りしましょうか」
肌にまとわりつくような声で、彼女は話し始めた。
「大した話じゃあないの。雨宿りついでに、ゆっくり聞いてくださいな」

あたし若い頃は東京にいましてね。それなりに人気のホステスをしていたんです。
銀座の大きなクラブでね、こう見えても店で一番の美人で頭も良いって評判で、お金持ちのお客様がたくさん付いていたんですよ。

そんな中で、お得意様だった一人の男性と恋に落ちました。

若いけれど新進気鋭の事業で成功した社長さんで、まあ、顔はそこそこでしたけど、遊び慣れていて羽振りもよくて。お客さんと同じ、奥さんのいる人でしたけど、あたしも若かったから。そんなことは関係ないって思っていましたわ。

自分で言うのもなんですけれど、彼はあたしの美貌にそれはご執心でしてね。「お前の望むものならなんでもやる、どんなことでもする」というのが口癖でした。
事実、彼は何でもくださったんです。高価な宝石、豪奢なドレス、歴史ある絵画に珍しいお食事、希少なワインとシャンパン。
もちろん、ベッドでもそれはそれは可愛がってくださいました。

「お前の肌は本当にきれいだね」と、彼はそう言いながら、本当に愛おしそうにあたしの肌を撫でるんです。
細く手折れそうな首筋から鎖骨、豊かな胸元からぎゅっとくびれた腰はまるで芸術家による彫刻のように美しい。しっとりと水気を含んだ素肌には手のひらが吸い付くようだって、いつもあの人は言っていました。
あの人はほとんど毎晩あたしの部屋を訪れて――ああ、その頃あたしは彼が買ってくれた高層マンションに住んでいたんですけれど、そこで毎晩のように抱き合いました。

ただひとつ、少し困ったことと言えば、彼が少々変わった嗜好を持っていたということくらいでしょうか。
その……なんて言いますの。
彼には加虐趣味があったんです。例えば打(ぶ)ったり縛ったり、女性を虐めて、傷付けて性的に興奮する……そう、SMというんですか。そういう趣味があるようでした。
あの人があんな、こう言ったらなんですけれど……不器量な奥様と結婚なさったのには、そういうワケがあったんです。奥様は幾人もいた奴隷のうちで一番余計な意思を持たない従順な女だった、そう言っていました。

ふふ。もちろん、あたしにそんな酷いことをしたことはないですよ。
「愛するお前を傷つけることなんてできないよ」とあの人は言いました。だからあたしたちの営みはいつも、あの人が優しくあたしの体じゅうを撫でて、愛おしそうに愛撫する。そういうものだったんです。あたしはあの人の手で何度も天国に行かされましたけれど、あの人がそれで男性として奮い立つことはほとんどありませんでした。

けれど、生来の美しさから男性に言い寄られたり逆恨みされたり、そういうことに疲れ、傷付いていたあたしにとってむしろそれは、なんだか人間本来の愛し合い方のような気がして嬉しかったのです。

夜道を歩けば知らない男に後を付けられ、電車に乗れば無遠慮に体を触られ、どこに行ってもいやらしく野卑(やひ)な目付きに晒されて……警察に訴えても、まるであたしが色気を振りまいて歩いているのが悪いみたいに言われる。そんなことは子供の頃からしょっちゅうでした。
だからあたしは半分男に復讐するみたいな気持ちで水商売をしていたんです。私をいやらしい目で、淫らで不純なモノとしてしか見ない男たちから大金を巻き上げてやれ、そんなつもりでいました。だからどれだけ男を騙して貢がせ、破産させるような真似をしても全然罪悪感なんかなかった。実際、彼らもあたしの容姿と体だけを狙っていたんですもの。お相子だわ。

けれど、この人は違う……彼だけはあたしを奪うことも、傷付けることもない。
それは何よりも純粋の愛情だと思いませんか?

あたしたちはそうやって、尊く気高い愛をゆっくりと育みました。平日あたしのもとで過ごした後、毎週末にはあの人は奥様の待つ家に帰っていきましたけど、それは彼のまことの心とはなんの関わりもないこと。親族や世間に対する単なる建前でしかありません。子供さえ生まれたらあの女はとっとと追い出してあたしを家に迎えてくれるって、あの人はそう約束してくれました。

子供――。

そう。子供を作るには、あの穢れた行為をしなくてはなりません。あの人は普通では性的に興奮できないたちでしたから、奥様を痛めつけながら、その汚い行為をなさっているのは明らかでした。
さすがにそのことを想うと少しばかり心乱されるあたしに、「気にすることなど何もないんだ」とあの人は言います。

妻とのセックスに愛情なんてない。あいつは殴られて罵倒されて悦ぶ、そんな卑しい女だ。たまたま都合が良かったから結婚したが、閨以外では口も利かない関係なのだ。あの女はただ俺の欲望を吐き出すための道具に過ぎないのだから、お前が心配するようなことは何もない。俺が愛しているのはお前ただ一人なんだ、信じて欲しい――あの人はそう言って、強く強く、あたしを抱き締めるのでした。

その腕の暖かさに、あたしは彼の真の愛情を信じることができました。
そうして半年くらい経った頃だったでしょうか。
ある日、あたしの元に、一本のビデオテープが届いたのです。

ええ、ご想像通り、それはあの人の奥様が送って寄越したものです。
添えられた一筆便に一言、「憐れな女の屈辱をどうぞお確かめくださいまし」と書いてありました。

中には何が収められているか、まあ、大方想像が付くってもんですよ。卑しい女の考えそうなこと。あたしが少し前に送った「旦那様の愛を一人占めしてごめんあそばせ、体だけの夫婦関係なんて本当に憐れね。そんな屈辱、あたしなら耐えられないわ」って手紙の仕返しのつもりだったのでしょう。

そう、あたしはあの人の奥様に何通か手紙を送っていました。帰ってゆく彼の後をこっそり付けて、おうちの場所も知っていたし、奥様の姿も見たことがあります。まだあたしと同じくらいのお歳なんでしょうに、まあ、ちょっと気の毒なくらい老け込んで地味な顔をした、だらしなく体型の緩んだ女だったわ。いくら子供を産ませるためだって言っても、あまりにあの人には似合わない。あたし、電話を掛けたり手紙を出したりしてあたしたちが如何に愛し合っているか、何度も知らせてあげたんですけれど、やっぱりブスでも図々しく生きていけるような人って無神経なのね。あの女は一向に身を退く気配がなかったんです。
ああ、そう。ビデオテープの話ね。
相手にするほどの女じゃなし、本当ならそんなものは無視して捨ててしまえば良いんでしょうけれど、やはり少しは気になります。それに、何を見せられたって全然平気だっていう自信もあった。
あたしはあの人と自分の愛に自信を持っている。二人の愛が揺らぐはずもない。例えそこにどんな汚らわしいモノが映っているとしたって、むしろ惨めなあの女の姿を確認して、優越感に浸れるのじゃないかしら。ならあの女の言う通り、確かめてやろうじゃないの。

そんな余裕さえ持って、あたしはそのテープを再生しました。

予想通り、そこに映っていたのは寝室のようでした。
奇妙なのは、本来であればその部屋の主人であるはずの豪奢なベッドがほんの画面の端に小さく映るのみということです。代わりに薄明るい間接照明の灯る部屋の中央には、木の椅子がひとつ。
あの女はそこに座らされていました。

いえ、座るというのが正しいのか……彼女は赤い襦袢を一枚羽織っただけの姿で、両手を背後に回して椅子の背もたれに、そしてあられもなく開いた脚は左右の手すりにそれぞれ黒革の拘束具で縛り付けられていたのです。

あたしは思わずはっと息を飲みました。
目隠しをして顔を隠しているせいでしょうか。それとも、薄く揺らぐような灯かりの加減でしょうか。一瞬、彼女の姿がドキリとするほど美しく見えたように思えたからです。

しかし瞬きをしてみると、そこに括りつけられているのはやはりただの輝きのない、冴えない醜女でした。その画面があまりに私の常識から考えて非日常的だったので、錯覚を起こしてしまったのでしょう。
まだ若いのに全体に脂肪のむっちりとついた、その体型。襦袢は肩に掛かるだけで体をほとんど覆い隠していないので、彼女のだらしのない体つきがよく見えました。腹を深く「くの字」に曲げるようにして低い姿勢で股間を前に突き出し、両足首と膝を手すりに括りつけられているので、たるんだ腹には二重三重に贅肉の層ができているのです。
剥き出しにされた乳房だけは豊かといえないこともありませんが、しかしそのでっぷりとした重量ゆえに張っているというよりは左右へ垂れ広がっておりましたし、そして何よりその……口に出すのも憚られるような場所を恥ずかし気もなくぱっかりと開いている姿は、まるで捉えられ内臓を解剖されたカエルか、丸焼きにされる豚のような醜悪さです。そして一際異様なことには、色白な彼女の肌には醜いミミズ腫れのような傷跡が全身縦横無尽に走っているのでした。

いくら特殊な性嗜好があるからと言って、こんな姿に欲情する男がいるかしら。

あたしは何だかそれだけで憐れな気持ちが沸いてきました。もし、あたしが愛する人の前にこんな醜い姿を晒されたら屈辱でとても耐え切れない。いいえ、あたしならもし彼女と同じ格好をしてもこんなに無様ではないでしょう。自分がこんなに不器量に生まれてこなくて本当に良かったわとそう思いました。

あの人、いつも本当にこんな奥様を抱いているのかしら?
俄かに疑わしくなりました。
だって、あたしを差し置いてこんな豚みたいな女に欲情できるなんて正直信じられないでしょう?

もし本当にこの女と抱き合っているとすれば、きっと、目隠しをしているのは顔を見て事を為すのが耐えられないからなのでしょうね。なんて、本当に憐れなこと。
そんな気持ちで画面を見ていますと、やがて、そこへもう一人、背の高い人影が現れました。
あの人です。

彼は普段と同じように、折り目正しい三つ揃いの背広を着ていました。到底、くつろいだ夫婦の閨(ねや)には相応しくない恰好です。やはり、これから睦言が始まるなんてあり得ないのではないかという気持ちが一層強まりました。気にしないよう心掛けていたとはいえ、もしかすると、私も本心では自分の愛する男と他の女が結ばれる所など見たくないと思っていたのかもしれません。

彼はゆっくりと、椅子に縛り付けられて目隠しをした女に近付いてゆきます。
その気配を感じたのか、女がビクリと肩を竦めました。
やがて女の目の前に来ると、彼はその首筋にそっと手を伸ばした。
なんだか一瞬ドキリとするほど、それは優しい仕草でした。しかし次の瞬間、私は思わずあっと声を上げました。彼が女の首をぐっと締め上げたからです。

「ああっ……」
目隠しをして何が起こるか解らないところにいきなり首を絞められているのに、彼女はどこか媚びたような声を上げました。傍目にも分かるほど指先に強く力が込められてゆき、女が頭を横に振りながら体をビクビクと震わせる。
しかし、彼は手を緩める様子もなく彼女の耳元へ唇を寄せて囁きました。
「……なんだ。もう濡らしているじゃないか」と。

――心臓が、ずくんと嫌な音を立てました。
それは私が今まで聞いたこともないような彼の声音だったからです。甘いような怖いような、何か押し殺したどうしようもない激情を秘めたその響き。
「ごめんなさい、ご主人様」
彼女は震える声で答えます。彼のもう片方の手が襦袢からはだけた乳房の先端をギュッと捻りあげ、そのままだらりと乳房がみっともなく伸びるほどの力で引っ張りました。
「あああっ!」
「乳首をこんなに尖らせて。首を絞められて欲情するとは、お前は本当にはしたない豚だ」

なぜでしょう。
彼による女の扱いようは、確かにあたしが望んでいたようなものでした。
乱暴に扱われ、豚と蔑まれ。それなのに、あたしの胸はざわざわと虫が這うようにざわつき始めました。そこに居たのがあたしの知らないあの人だったから……? いいえ、それだけではないような気がします。

だらしなく開かれたあの女のその場所が、薄明りに照らされてぬらぬらと濡れ光っているのが分かります。罵られ、痛めつけられて興奮する女。引き千切らんばかりだった乳首を漸く解放したあの人の手にはいつの間にか靴ベラがありました。
何の前触れもなくそれが剥き出しの乳房へ振り下ろされて、ひゅっと風を切る音。
「ああっ!」
鋭い悲鳴があがり、真っ白な肌へ散る赤。二度、三度と続けて振り下ろされる靴ベラ。乳房には無残なうっ血が広がり、いくらか血が滲み始めているようでした。
あの人の輝く目に宿る恍惚と興奮は、あたしが知り得なかったものです。

彼はそのまま醜く突き出した腹、太股、内股、そしてあの場所にまで幾度となく凶器を振り下ろします。彼女の体に消えぬ傷跡が残っていた意味をあたしは知りました。彼の力に加減があるようには見えません。

こんなに、無残に、モノのように扱われているのに。
悲鳴を上げながら、どこか彼女の口元は笑っているようでした。

いいえ、もしかするとそれはあたしの心が見せた錯覚だったのかもしれません。
息を切らせて思う存分に彼女を打ち据えたあと彼は一度その場を離れ、そしてしばらくして戻ってきた時には、洋酒の酒瓶を持っていました。
私ともよく飲んだ、火の付くような強いウォッカ。彼はお酒が好きなんです。今お客さんが飲んでるその日本酒も、彼の好物だったのよ。
彼は、そのウォッカを、血まみれで傷だらけの彼女の体に無造作に振り掛けました。
「ヒィッ!」
まるで、皮を剥がれ塩を塗り込まれた因幡の白兎のようなものでしょう。彼女は髪を振り乱して身悶えますが、あの人は薄ら笑いを浮かべてそれを眺めています。
その、スラックスの股間部分が、大きく、硬く膨らんでいました。

私の胸に灯った炎は既に激しく身の内を焼き、見ない振りなどできないものになっていました。
彼はそのまま酒瓶をあの女の陰部へ突き立て、膣内へ酒を注ぎこみます。敏感な粘膜を焼かれて息も絶え絶えに悲鳴を上げる女の声の、どこか、甘く溶けるような響き。
その間にベルトを外し、曝け出されたあの人のその場所はやはり隆々と天を向いていました。
私が未だ、一度も見たことがないその昂ぶり。
ドクドクと波打つ血管を浮き上がらせた、逞しく、太く、雄々しい男性の象徴。

女の股間から酒瓶を引き抜き、彼は自らをその場所へ一息に突き立てました。愛撫もなにもない。まるで労わりや遠慮のない、モノでも扱うかのような挿入です。
しかし、その瞬間彼女の唇から迸ったその声の、歓喜に満ちたことと言ったら。
「あああっ……!」
あの人は瓶の口から直接残ったウォッカを煽ると、彼女の髪を乱暴に掴みあげて顔を上向かせます。そして、それを口移しであの女に――。
強い酒に塗れた激しい口付け。濡れた二人の舌がヌラヌラとまるで蛇のように絡み合い、吸い合い、求め合う。
その後のことは、もう、あまり記憶にはありません。
ただ覚えているのは、酔いに赤く上気したあの女の濡れた肌と、汗で体に張り付く襦袢、軋む皮と椅子の音、そして獣のような二人の喜悦の咆哮。
目隠しを外され、最後に膣奥へ精を注ぎ込まれたあの女の、とろけるように幸福そうな微笑み――。

あたしはその後、あの人と別れました。
あんなものを見せられたら、とてもじゃないけれどそのまま彼を受け入れることなどできません。
負けたなんて思ったわけではないのです。ただ――ただ、あたしが彼に感じていた、そして彼があたしに感じていたであろう愛って一体なんなのか、よく分からなくなってしまったの。

あたしに捨てられたあと、しばらくしてあの人は自殺未遂をしたんですって。ちょうど世間の景気も悪くなってきて、事業も傾いてきた頃だったようですし、あたしのせいだなんて思うのは、きっと思い上がりね。
自宅で毒を飲んだのをあの女が見付けてなんとか一命はとりとめたようですけれど、体が麻痺して寝た切りになってしまったそうです。
今頃は奥様と二人、静かに真実の愛を育んで暮らしてらっしゃるんじゃないかしら。

そこまで言って、女はクスクスと小さな笑い声を上げた。
「それで、あたし、辛い恋の思い出を忘れるために東京を捨ててここへ来て、頂いた手切れ金でお店を開いたんですの」
私は半ばから少々鼻白んだ気持ちで彼女の話を聞いていた。彼女は自分をくどいほどに美しいと賞賛していたが、正直に言って、年齢を重ねたことを加味しても今目の前にいる女にそこまでの魅力があるとは思えなかったからだ。
今の話は恐らく、全てとは言わぬとも、ほとんどが嘘なのだろう。
都会でホステスでもやっていた女が、不倫ののちに捨てられて田舎へ落ちぶれて来た過去を美化するためにでも作った与太話に違いない。

ふと気づくと、外の雨音は止んでいた。
こんな場所に長居は無用だ。確かに酒は美味かったが、女の見栄は頂けない。内ポケットから財布を取り出しながら会計を尋ねようとした、その時だった。
頭上で、ズルリ、と何か大きなモノが這うような音がした。
動きを止めた私の視線に気付いた彼女が、ゆったりと唇を引き上げる。

「あの人が飲んだのは鉛だそうです。ご存じ? 鉛ってとても甘くて、昔はワインの甘味料に使われていたのですって。それで国がひとつ、滅んだのよ。最初はなんともないけれど、毎日飲むと少しずつ少しずつ、手足が痺れて、記憶が混濁して、身体が動かなくなってゆくの」
なよなかな指先が、トン、と目の前のお銚子を叩いた。
着物の袖口から覗く白い手首に、赤く引き攣った、火傷のような傷跡が覗いている。

――消えない傷跡。
美しくない女。
甘い酒。

唐突に私の頭に浮かんだのは、いま、目の前にいる女は美貌の愛人なんかじゃなく、愛人に夫の愛を奪われようとした妻のほうなのではないか? ということだった。
では、鉛を飲んだ男というのは――。
頭上で、ズルリ、と音がする。
「あらあら、お腹でも空いたのかしら」
困ったように微笑む女に、私は急ぎ雨宿りの礼を言って代金を支払った。店を出ようとすると背後から、彼女の声が追って来る。
「ありがとうございました。また、いらしてくださいね……次は若くて可愛らしい恋人でも、お連れになって」
あたしが奥様の代わりに、甘いお酒をふるまいますわ。


※本作品は俳優やまおきあやさんの日本酒官能朗読会のために書き下ろした小説です。

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