時時

 それは宗教が宗教になった瞬間だった。何気ない瞬間に人は過ちを犯す。それと同じように人はある時突然、明確な救いを求めるのだった。信じるということは何も考えないということで、それは無味無臭の快楽である。安心は無関心を生み、産まれてきた意味も見出す必要がなくなった。
私たちは救いを求めて不安定の中を泳ぎ続けてきた。手に取った安定は結果ではなくて目的である。安定、それ以上でもそれ以下でもない。煩悩は段々と薄くなっていってもうここには見当たらない。散々泳いだはずのあの海が、目を凝らしても見つからない。でももういいのだ。探す必要もない。生きるも死ぬも泣くも笑うも、全てが無価値であり、全てが価値なのである。そんな世界に生かされていると、私は気づきたくもない。

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