日記を書くこと

最近、無為な日記を書けていなかった。久しぶりに note を使ったついでに、ちょっと書いてみようと思う。

文章を綴ることは好きだ。自分の中の思考がまとまっていくとの同時に、書き起こすことで新しい発見がある。自分の内面から新しい自分が出てくる。

と、同時にそれは果たして自分の言葉なのかも疑ってしまう。思考の幅は言語能力によって規定されている。思考を言葉にのせて、自分の思考のフレームワークにのった瞬間にそれに付随する諸々が現れる。自分の中から出たというよりは、自分の言葉と、フレームワークが誘引するイメージの組み合わせによる創発なのだろう。

今ここで使ったフレームワークという言葉は大量のコンテキストを含んでいて、次の段落では、どの側面を切り取るかで展開が変わっていく。先が決まっていれば、良い落とし所を探るが、エッセイというのは構造を先に決めずに書いてよい。とすると無限に引っ張られるわけで、ランダム生成の言葉の迷宮で、ローグライクのような違ったゲーム体験が得られるわけだ。

しかし、それでもというべきか、ゴールがあったとしても、オチを先に規定していても、ボリュームを膨らます段階で、そのオチを捨ててしまうことが、自分はよくある。そうなってしまうきっかけは、読み返してみると大抵、重視するつもりがなかったような、文末からちょっと滲んだ感情なんかに引っ張られたりしている。

ここで仮に、上のテキストを「引っ張られたり」を「引っ張られたりしてしまったり」と書いていた場合、多分自分はその先で全く違う展開を書くと思う。この文章は自己言及的な文章なので、その点に自覚的があるがゆえに、ここでは切り捨てるが、この段落に至る展開を決めたのは、「フレームワークが誘引するイメージの組み合わせの創発」というフレーズだ。

今日、別に何を書くか決めていたわけではない。ただ書いていないから書いた。それだけだ。

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