寺井奈緒美『アーのようなカー』往復評④

寺井奈緒美『アーのようなカー』往復評③|はしづめしほ|note(ノート)https://note.mu/ooeai/n/n15599e8d83ac

〈うつくしさ〉のことを言えって? 水沼朔太郎②

橋爪さん、こんにちは。いきなり本題から入りますね。「だって共感系の歌に対して戦っているひとなんていくらでもいるじゃないですか。わざわざ戦い理念を置きにいかなくても、実際戦っている姿でそれをアピールしたらいいじゃん!って思うんですよね。いくら「往復」って箇所が大事って言われても、「うつくしさ」とまで言っちゃうとやっぱり歌の魅力としては半減するような気がするんです。」という箇所、わたしも同意見です。同意見なんだけど、もしそもそもの「ずれ」を認識できていない読者がいたらどうしよう、とか思ってしまってついあんな書き方になってしまいました。そこは申し訳なかったです。ちょうど、ほとんどおなじタイミングで瀬戸夏子の歌について書いたのだけどそこでも〈通常の短歌〉という言葉を使って瀬戸さんの歌を説明したら質問箱で突っ込まれてしまうということがありました。さて、〈うつくしさ〉についてなんですが、わたしは〈うつくしさ〉と聞くとなによりも〈美しさのことを言えって冬の日の輝く針を差し出している/堂園昌彦〉を思います。『やがて秋茄子へと到る』の巻頭歌です。で、『アーのようなカー』で好きだった歌に〈アンコール叫ぶ君にもわたしにもそれぞれの胸に終電はある〉があるのですが、よくよく考えてみるとこの歌けっこう秋茄子っぽさがありますね。で、橋爪さんが「好みじゃなかった歌の話ばかりしたくないので」と書いていてわたしも好みの歌の話をしたいのですが、おそらくわれわれの好みの歌は〈うつくしさ〉よりも比喩の驚きに乗れたタイプの歌に集中するのではないか、とこれまでの引用歌を見て感じています。しかしながら、この歌集に〈うつくし〉を詠み込んだ歌ってじつはめちゃくちゃあるんですよね……で、これは橋爪さんが出していた〈オシャレさ〉とも関係するのかもだけど、もしかしたらこの歌集はうつくしくてオシャレな世界を目指して作られたものなのかもしれない。

花びらをビニール袋に貼り付けてそこに居た時間がうつくしい
うつくしくないよ ふつうに憧れるなんてと素麺のサクランボ
うつくしく斜めに曲がる階段の手摺の苦い匂いが好きだ
なくなれば美しくなる でもぼくは電線越しの空が好きです
うつくしい花を咲かせていくように蜜柑の皮をむく指先だ
ここに来たときよりも美しくして帰る遠足みたいに死のう
手羽先の骨をしゃぶっている時のろくでもなくてうつくしい顔
バーベキューオアマスタードと問うときに鋭い目するうつくしいひと
往復をすることの意味手ばなして壊れたファスナーのうつくしさ

最初の回で「この歌集の歌、なんというか、おぼろげにサイコみがあるような、ちょっと大丈夫かなみたいな奇妙な歌(わたしはこれを「すっとん恐怖」、すっとんきょうと恐怖の複合造語――と名付けることにしました)と、世界やモノを肯定している温かい歌に分かれると思っていて。歌集の前半部に前者が、後半部に後者が多く見られるのですが、」というくだりがあったのですが、いま引用した歌は最初の一首以外は中盤から終盤に集中しています。なので橋爪さんの主張には一貫性がありますね。わたしも〈うつくしさ〉が直接的に詠み込まれたこれらの歌に全体的にはあまり惹かれないのですが〈うつくしく斜めに曲がる階段の手摺の苦い匂いが好きだ〉はすごい好きなんです。それはたぶん〈階段の手摺〉が〈斜めに曲が〉っているからでそれだけと言われればそれだけなんだけど、そういえば、表紙の絵もぐにゃっと曲がってますね。橋爪さんが寺井さんのびっくりするタイプの歌の比喩を「少し距離が遠い」と表現していましたが〈うつくしさ〉っていうのは距離の遠近感そのものを暴力的に無化するようなことだと思うんです。受け手としてはそういわれると受け入れるしかないようなタイプの。けど、寺井さんの歌のおもしろさは〈うつくしさ〉とカテゴライズしてしまう前の領域にある、話を強引につなげるとそういう感じでしょうか。

寺井奈緒美『アーのようなカー』往復評⑤|はしづめしほ|note(ノート)https://note.mu/ooeai/n/nb13899d9b8a7

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