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日記 2024年第9回

■月曜日
朝、出勤時に最寄り駅のプラットフォームで、紙袋を手にして立っているサラリーマンが居た。お菓子か何かが入っている様子だ。三連休できっと遠出して、そのお土産を連休明けの会社で同僚に配るつもりなのだろう。
出勤してデスクに着いてから、朝食後の薬を飲み忘れていることに気づき、マグカップに水を汲む。薬のシート(銀色のやつ)を見るたび思い出すのは、シートごと飲み込んでいた病院の入院患者の話だ。その患者は病気経験がほとんどないせいか、錠剤をシートから取り出して飲むという発想がなかったらしく、大変な飲みにくさを感じながらも、シートごと水で流し込んでいたらしい。世の中には想像を絶することが色々とあるが、これもそのひとつだと思う。

■火曜日
朝、目覚めたのち、すぐさま二度寝する。15分だけ二度寝して大変に気持ち良くなったところで起き出そうとすると、いつもの場所にメガネがない。たぶん、最初に目覚めたときにメガネを手にして、そのままどこかに放って二度寝してしまったのだろう。大変に焦りながら二分ほど探すと、毛布の中から包まって出てきた。
日課の朝散歩や小説の執筆を終え、今日は在宅勤務の日。のんびりと仕事をする。
昼休憩になり、強風のなか最近オープンしたバーガーキングまで歩き、ワッパーを注文する。隣の席の大柄な男性が、ワッパー二つとLサイズのドリンクにポテト、アップルパイまでトレイに乗せていて、おお……となる。まさに「かぶりつく」といった具合の良い食べっぷりで、ちらちらと横目で見惚れてしまった。
注文していたワッパーが出来上がり受け取る。自分の席に戻って食べる。自然と右手の人差し指と中指で上のバンズを掴むようにしていて、これがキムタク・スタイルか……と悦に入ったが、キムタクは人差し指と薬指だった気がする。まだまだ遠い。
帰りにセブンイレブンでLサイズのホットコーヒーを購入。午後の勤務への原動力とする。
在宅勤務なので細やかに休憩を取る。この作業が終わったら、あの作業が終わったら……と家事を細々と片付ける。掃除機をかけ、溜まったゴミを捨てた。
早めに勤務終了し、晩御飯を食べに行く時間まで読書。古賀及子さんの日記本と、森博嗣の『イデアの影』、それからエーリッヒ・フロムの解説本。言って気づくが、古賀さんのことは「さん」付けなのに、森博嗣のことは呼び捨てだ。だからといって後者に対する敬意が欠けているわけではないことは、ここに付記しておく。距離感が遠いと、自然と呼び捨てになるのだ。誰だって「徳川家康さん」とは言わないだろう。大谷翔平は「オオタニさん」かもしれない。微妙だ。

■水曜日
サコッシュ、というものがある。生まれてこのかた、見たことすらないと思っていたのだが、過去に目にしていた。先日参加した横須賀×アズールレーンのスタンプラリーで購入して、見たことはあれど名前を知らなかった、ということに気づいた。最近はそのサコッシュを、近所に出掛ける際に荷物を入れて身に着けている。ゲームのキャラクターが描かれたものだけれど、そこまでど派手でもないので、気にしていない。
いつでも気軽に持っていけるように玄関の脇に置いているのだけれど、それが出勤前に目に入る。すると、「サコッシュがある生活だ」という僅かな感慨が浮かぶ。微量ながら生活が変化するとはこういうことで、何をするにも無駄だとか意味がないとか言うものではないな、と思う。どんなことにでも意味があるとは言わないけれど、大抵のことに面白みを覚えることはできる。
最近は眠りが浅く中途覚醒が多いため、昼間の眠気がひどい。医者に言って薬まで追加で処方してもらったのだが、まだ改善の兆しは見えない。舟を漕ぎつつも仕事を終わらせ、定時で退勤した。

■木曜日
朝の散歩を済ませ、白湯を飲み、それを含めたルーティンを無事にこなして満足な朝を過ごす。それでも貪欲に、森博嗣の『イデアの影』を読みながら通勤。扉のページに谷崎潤一郎の『細雪』が引用されており、浅学菲才がゆえ谷崎を読んだことがなく、若干恐れ慄く。初読の際は「谷崎潤一郎」という文字列さえもよく分かっていなかったので、恐れ慄くことすらできなかった。これはあれだ、会社のエントランスを掃除しているオジサンが、実は社長だった、というフィクションのお決まりに近い、知ることで恐れるパターンだ。
通勤路には団地があり、その間を縫うように通っているヒトのものともクルマのものとも判然としない道路に、毎朝微妙に位置を変えてトラックが停まっている。フロントガラスには「安全も運びます」という文句が書かれたプレートを掲げていて、これはきっと「荷物を安全に運びます」ということなのだけれど、「安全を運ぶ」とはどういう日本語だ! と波平さんのように怒ってしまう。会社に到着するまでそのフレーズが頭の中をぐるぐると巡り、そうして巡らせている間に怒りがどうでもよくなり、もしかしたら良いキャッチコピーなのではないか、と思い始めた。「可愛いは、つくれる」に代表される、「本来くっつく筈のない動詞をくっつける」キャッチコピーは、まさにキャッチーだ。違和感というフックに引っ掛かるようにできている。「安全に運びます」ではなく、「安全も運びます」。おお、これは「妙」と言えるのではないか、という感を噛み締めて、オフィスのドア横に社員証を翳した。

■金曜日
連日連夜、うまく眠れない。寝付きは良すぎるぐらいなのに、やはり中途覚醒が酷く、日中帯がどうしても苦しい。
それでも人生は続くし、仕事もなくならない。どうにか頑張って午前中のタスクをもりもりとこなし、午後は協力会社のオフィスに赴いて打ち合わせ。これがなかなか立派なビルに入ったオフィスで、ロビーの絨毯がふわふわだった。エスカレーターは高速で、東京を感じた。打ち合わせ用のテーブルにはミネラルウォーターが用意されていて、さらにコーヒーまで出されてしまった。恐縮しつつも仕事を終え、それでも定時前。会社に戻るか直帰するか、上司に尋ねたところ帰ってよいとのこと。ならば遠慮なく、直帰しますとチームのチャットルームに書き込み、無事に帰宅……はせず、書店に寄る。谷崎潤一郎の『細雪』と『陰翳礼讃』を購入して、今日も元気に積ん読を増やした。先月は5冊読了したから、読んでいないわけではないのだけれど、なにぶん気に入った本の再読が多いし、難しくて諦めた本も多い。家の本棚はとうに溢れて、以前はランチョンマットを敷いていたローテーブルにも本が積み上げられている。文字通り、物理的な「積ん読」だ。

■土曜日
都内某所の駅で降りて、目が痒く、洟が垂れることこに気付いた。十中八九花粉症だ。だけれど、昔ほどではない。そういえば、虫刺されによる痒みも、痒いな! と思うことはあっても時間の経過によっていなせることが多くなり、治りは昔に比べて圧倒的に早い。時間の流れの体感が恐ろしく早くなっているだけかもしれないけれど。最近は花粉に鈍く、虫刺されに鈍く、乾燥や騒音に敏感になった。
なんとなしにスマフォを見ると、充電がない。残り6%というギリギリ具合だが、意志の力で充電しないことを決断する。そうしてスマフォを手放し、ドラッグストアでの買い物を鋭意済ませる。
ドラッグストアというのは色々な品が並んでいる。近所のストアでは、店先にティッシュやトイレットペーパーが、店内に入ってすぐに季節モノ(夏は虫刺され薬、冬はカイロなど)があり、左に進めば洗剤やサプリメント、右に進めば化粧品などが並んでいる。私はものすごいものぐさで、私生活においてTODOリストや買い物メモのようなものを作らない人間だから、ドラッグストアに行くと毎回何かを買い忘れる。外を歩きながら現在の自宅を脳内で歩き回り、あれがない、これもない、と探し回り、瞬時にドラッグストアも脳内で歩き回り物色し、イマジナリーなメモを作り出している。が、上手くいったことは微塵もない。
帰宅して古賀さんの日記エッセィを読み、握りこぶしに出来る人差し指のつけ根の盛り上がりがチュッパチャプスのようだ、という(古賀さんの)娘さんの慧眼に脱帽。本当だ。骨が形づくる山と、その上を走る筋の細い部分がそっくりなのだ。これは呪いだ。今後一生、握りこぶしを見るたびにチュッパチャプスを思って生きることになる。

■日曜日
起きてみると普段より2時間も寝坊していた。それもそのはず、今日は「絶対にダラけるぞ!」という気概を昨晩から溜め込んでおいたのだ。
それでも朝の散歩を欠かさずやるために、今日は変則的にミスタードーナツへ向かう。いつもはコンビニコーヒーなのだが、今日はミスタードーナツでドーナツとともにおかわり自由のブレンドをいただこうという算段だ。
思えば私は、各種チェーン、ファストフード店に対して、実に真摯に向き合っているように思う。行く前にあれこれ注文するものに考えを巡らせ、時と場合によっては数日前から「行くぞ!食べるぞ!」と意気込んでいる時さえある。基本的に食欲が旺盛なのもあるけれど、もっと根源的なところで「なんとなく」で行動できないきらいがあるのだろう。時間割を組んで過ごしたい質《たち》なので、なんとなく、フラっと……みたいな行動がどうにも苦手だ。ダラけることさえ計画しているのだから。
ミスタードーナツでコーヒーを2杯いただいてから、続いて計画通りゲームセンターへ。音ゲーに興じ、充分に愉しんだところで退散し、歩数稼ぎのために3駅ぶんほど歩く。
帰宅してから森博嗣の『イデアの影』を読み終わり、古賀及子さんの『おくれ毛で風を切れ』も次いで読み終わる。前者は幾度目かの再読で、文章の美しさが極まっているタイプの作品。後半に行くに連れて描写がめちゃくちゃになっていき、誰の視点で描かれた作品なのか混乱させられる。森博嗣作品に登場する人物の狂い方は妙にリアリティがあるというか、狂っているけど論理的思考力が失われていない感じが素敵で恐ろしい。後者は初読の日記本(先日サインまでいただいた!)で、前者とは対照的にどこまでも現実に両足がぺったりとくっついた日常が綴られている。母である古賀さんと娘さんと息子さんは家族でありながら、互いが互いをきちんと他人として扱っていて、これがまことのリスペクトなのかな、と思う。読んでいると自然に笑みがこぼれてしまうし、家だったから声を上げて笑ってしまった。「世知辛い世の中だ」なんて常套句は本当に良く聞くけれど、同じ世界、同じ時間に、こうして心が豊かなひと家族が同居していることを思うと、なんとも言えない豊かな気持ちになる。豊かだから分け与えることができるし、それはとりもなおさず豊かさの定義だ、と思う。

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