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リオのホテルとトゥッティ・フルッティ

 先日Amazonで好きなアーティストをあれこれ検索していると、NEW ORDER「Tutti Frutti」を石野卓球がリミックスしたシングルレコードが出てきた。在庫は残り1点。価格は2,200円で、Amazon.jpの出品なので送料無料。同じくAmazon.jp出品で1,913円だった、フロッピーディスクを模したジャケットで有名な、石野卓球がピエール瀧と出会った日に最初に聴かせたNEW ORDER「Blue Monday」のシングルレコードと共に購入した。

 「Blue Monday」のレコードはNEW ORDERやファクトリーレコード、電気グルーヴ好きとして以前から欲しいと思っていたけど、「Tutti Frutti」の石野卓球リミックスはそれとはまた違う思い入れがあった。簡単に言えばブラジルのリオの安ホテルの一室でよく聴いていたというだけのことだけど、そこに至る経緯は簡単じゃなかった。

 2016年の初め、大学入学のために地元を離れて以来15年ぶりに故郷に戻って今の仕事を始める前に、せっかく長い休みを取ることができるのだからということで、当時兄家族が転勤で住んでいたブラジルへ1ヶ月間旅行に行った。

 半月は兄家族が住んでいたアマゾナス州の州都マナウスで、アマゾン川をボートで渡ったり、3kgもあるトゥクナレという魚を釣り上げて食べたり、港町のようなセントロ(市街地)を歩いたりした。気温は連日30度を超してスコールが降り出すと半日くらいホテルから出られないといった不便はあったけど、楽しかった。

 夜になると仕事が終わった兄が日本でもお馴染みのシュラスコが食べられるシュハスカリア(シュラスコの正式な発音はシュハスコ。シュハスカリアはシュハスコ屋くらいの意味)やブラジルで作られるサトウキビの蒸留酒カシャーサが豊富に揃えられているバー、バンド演奏を観ながら酒が飲めるレストランなどに連れて行ってくれた。兄家族のマンションに住む知人家族とのBBQも楽しかった。

 もう半月はちょうどカーニバルが行われる時期なのでリオに滞在した。2016年のカーニバルは2月6日から10日までの5日間で、この間は多くの人が仕事を休んで昼間からビールを飲んで街を歩いている。至る所に屋台が出て酒やハンバーガーやソーセージが売られていたり、店先にDJブースを設けて割れるような音量でEDMを流していたり、小さなリアカーを引いて水やビールを売るにわか商人が何人も歩いていたり、音楽と酒の濁流のようになった街を酔いながら歩いて回るのは楽しかった。

リオの地図

 リオのカーニバルというと至るところでパレードが行われているように想像する人もいるかもしれないけど、パレードは主にサンボードロモという会場で行われる。

 そこは長い道路の両サイドに客席がある作りになっていて、ブラジル中から集まったチーム(エスコーラ・ジ・サンバ、サンバ・スクールと呼ばれる。日本の祭りで言うところの連)が順番にパレードをしてダンスや演奏、衣装や山車などを競うコンテストが行われる。だからいわゆるリオのカーニバルのパレードを観るんだったらこのサンボードロモに行かなければならないんだけど、はじめのころ僕はそんなことは知らず街を歩き回っては「パレードに行き当たらないな」と思っていた。

 ポケットWi-Fiも持っていなかったのでホテルに帰ってからネットで調べてようやくそのことを知り、どうせチケットは売り切れているだろうけど雰囲気だけでもとサンボードロモに行くと、格安の当日券が売られていた。

 喜んで会場に入ってみると僕が買った席は会場の終端で、どうやら審査員席のある辺りまでは派手にパフォーマンスをするがそこを過ぎるとあとは評価に関係が無いので適当に流すチームが多いということらしい。確かにそんなチームもあったが最後まで客席に笑顔を向けて手を振ったり踊るチームが多かったし、大きなスクリーンがあってそれを観ると一番盛り上がる場面もしっかり観ることができた。

 パレードのメインはサンボードロモだけど、出番の日ではないチームや出番を終えたチームは地元でパレードをすることがあるらしかった。そんなパレードにビールを片手に踊りながらついていくのも楽しかった。4人組の若い男たちに声をかけられて、帽子を交換したり、ビールを奢りあったりしながらパレードを追いかけた。彼らとはWhatsAppという日本でいえばLINEのようなアプリで連絡先を交換し合い、そのうちのひとりの会社の同僚の女性が日本に興味があるからということで紹介してもらって、後日その人の住む街を紹介してもらう約束になったりした。

 そんなカーニバルの終盤の日、市街地で人に揉まれるのも飽きた僕は、とりあえず地下鉄に乗って多くの人が降りる駅で自分も降り、その人たちについていってみようと思いついた。下調べをほとんどしないでブラジルに来たので、マナウスでもリオでもとにかく歩き回るか現地で買った地図を見てその日の行き先を考えないと一日中ホテルかホテルの近所の店でビールを飲むくらいしかやることがなかった。

 地下鉄に乗っていると、グローリアという駅で多くの人が降り出した。慌てて僕も降りて彼らについていくと、やがて海沿いの公園のようなイベント会場のような所に着いた。奥にはステージが作られていて、大所帯のバンドが何やら演奏をしている。受付のような場所はないのでおそらく無料で観られるらしい。

 早速会場内の屋台でビールを買って握りしめながら人波をすり抜けてできるだけステージの近くに寄っていった。よくよく聴いているとビートルズを演奏しているらしい。衣装はTシャツだけどよく見ると『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のジャケットでビートルズが着ていた制服を模したデザインになっている。アレンジは楽器も人数も多いのでサンバのようでもサイケデリック・ロックのようでもあるが、野外でビールを飲みながら体を揺らして聴くにはこの上もなく最適な音楽だと思った。

 すっかり気分が良くなったところで手元のビールが空になり、僕は新しくビールを買おうと屋台に向かって歩いていった。すると、裸の上半身を真っ赤に塗ってイラストの虫歯菌が持っているような三又の槍を持った悪魔のような男がいた。男は槍を腰あたりの高さに差し出して周囲の人にリンボーダンスをさせている。すっかり気分の良くなっていた僕はリンボーダンスに加わり、周辺を歩く人を誘い入れたり、今度は自分が槍を持って悪魔の男にリンボーダンスをさせたりした。これは愉快だ、この模様を動画に撮っておこうと思ってポケットに手を入れると、スマートフォンが無くなっていた。

 正気に返るという言葉はああいうことを指すんだろうと思う。一瞬にして酔いも興奮も覚めた。盗まれた? それも考えられるけど、おそらくリンボーダンスで落としたんだろう。当時使っていたのはiPhone6 plusで、通常のiPhoneよりも2回りほど大きなモデルだった。さらに手帳型のケースを着けていて、ポケットに入れる際には気をつけないと引っかかってちゃんと入らず、トイレで用を足した後にズボンをあげると転げ落ちたり、屈むとお腹に押されて転げ落ちたりすることがあった。今回もおそらく中途半端にポケットに差したままリンボーダンスをするうちに振動で落ちてしまったんだろう。なんて間抜けなんだ。それにしてもスマートフォンが無ければ調べ物をすることも、家族と連絡を取ることもできなくなってしまう。

 さっきまで大はしゃぎでリンボーダンスをしていた僕が急に下を向いてうろうろし出したのを不思議に思ったのか、悪魔の男がどうしたんだ? というように肩に手を置いてきた。知っているポルトガル語を並べて「スマートフォンが無い」とだけ言うと、気の毒そうに離れていった。仕方ない。こんなところで落としたら誰かに拾われて持ち去られるにきまっている。同じ場所で踊っていたんだから落ちていたらすぐにわかるはずだし。とにかくこうしていてももう意味が無いので、頭を切り替えて今後何かしら被害が降りかからないように必要な手続きをするべくホテルに戻った。

 ホテルの電話を使わせててもらって保険会社に連絡をした。盗難ということであれば旅行者用の英語が通じる警察署(ツーリスト・ポリス)があるのでそこで盗難証明書を作ってもらって提出して欲しいとのこと。それはそうとしてパケット通信や通話を勝手にされて莫大な金額を請求されないようにしないといけないのでそれらを止めたいと言うと、保険会社の支社なのか提携している会社なのか、現地のスタッフがこちらに向かってくれるらしい。彼のスマートフォンを使わせてもらって通話やパケット通信ができないように手続きをした。あとは盗難証を貰いに行くだけだ。だけどその日はもう感情の起伏が激しすぎてどっと疲れてしまい、軽く食事をとって寝てしまった。

 翌日にはまた気持ちを切り替えて、どうせ予定なんて無いしこんなことでもなければできない経験だと思ってツーリスト・ポリスを目指した。地下鉄で南下していった終点のさらに先にボサノバの名曲「イパネマの娘」で有名なイパネマ・ビーチがあって、ビーチ沿いの街にツーリスト・ポリスがあった。英語が通じるといってもポルトガル語と大して変わらない程度の語彙力でなんとか説明をして、被害届のようなものを書き、なんとか盗難証明書を作成してもらう。

 ひと仕事終えて周辺のドラッグストアのような店に入った。水かガムくらい買えたらと思ったら、意外にもそこにはタブレット端末が売られていた。とりあえずWi-Fiさえ繋げられれば、ホテルの中だったら連絡や調べ物ができるのでは? と考え、それでも旅程の後半ということもあり、できるだけ安い端末を購入した。1万円ほどだったと思う。これでいろいろ解決するかもしれないと、足取り軽くホテルに帰った。

 まずホテルのWi-Fiに繋ぐことはできた。OSはAndroidで使うのは初めてだったが、日本語表示にすることもでき、なんとなく勘で操作もできそうだった。

 早速必要そうなアプリを入れていったところ、早くも問題に行き当たった。とにかく連絡ができないと家族が心配するだろうとLINEを入れたところ、LINEのアカウントは電話番号に紐づいているので使用できないことがわかった。それでは連絡はどうするのか。時間だけはあるのであれこれ考えた結果、メールアドレスでログインできるSNS、Facebookのメッセージ(Messenger)やTwitterのダイレクトメールを使えばフォローしている人とは連絡が取れることに気づいた。これで家族や一部の友人とは連絡が取れそうだ。

 そういえばカーニバルで知り合った人たちや紹介してもらった女性はWhatsAppで連絡を取っていたけどどうだろうか。まあLINEみたいなものだから無理だろうなと思ったらやっぱり駄目だった。つまりいきなり連絡が途絶えて次に連絡ができるのは帰国して新しいスマートフォンを買ってからということになる。紹介してもらった日本に興味があると言う女性、住んでいる街を紹介してくれるのが楽しみだったのに残念だったな。第一申し訳ない。でもこればっかりは仕方がない。

 でもこの女性の連絡先はクラウドに保存されていて、スマートフォンを買い替えたところまた連絡を取ることができるようになった。そして翌年には実際に日本に来れることになって一緒に高尾山に登ったり浅草寺やその近くの居酒屋に行ったりすることができた。彼女の住む街を見ることができなかったのは残念だけど、一度連絡が途絶えてしまった時点で繋がりが失われてしまわないで良かった。

 そんなわけで連絡という問題は解決したものの、このタブレット端末は安いだけあってとにかく動作が遅く、もともとホテルのWi-Fiの電波が弱いこともあって調べ物にも時間がかかるし、時間がかかった挙句に画像が全然表示されないこともよくあった。一応カメラがついていたがその性能も話にならないほど悪く、初めて携帯電話を持った20年くらい前と同じような画質だった。まあそれでもあるだけありがたい。どうしようもないのはこの旅でこれまで撮ってきた写真が消えてしまったのと、これまでホテルにいる時はiPhoneがあればそこに入れていた音楽を流していたのがその音楽も流せなくなってしまったこと。

 ここまでなんて長い前置きだっただろうか、つまりこの状況で聴いていたのが今回購入したレコードに収録されている「Tutti Frutti (Takkyu Ishino Remix)」だった。

 iPhoneが無くなったのになんで聴くことができたのか。とにかく音楽が聴けないのは辛いと思った僕は動作の遅いタブレット端末でネットを検索し、無料で聴くことができる音楽を探した。すると「Tutti Frutti」をケミカル・ブラザーズのトム・ローランズがリミックスした音源がSoundCloudで公開されていて、無料でダウンロードできるということがわかった。早速、何度もエラーで中断したり最初からダウンロードしなおしたりしてなんとかタブレット端末に入れた。

 SoundCloudは有名無名のユーザーが音楽をアップロードしているサイトで、全ての音楽がダウンロードできるわけではないけど、プロのアーティストも参加しているし、アプリもあるのでブラウザよりは動作も早く再生できそうだ。そこでアプリを入れて好きなアーティスト名で検索した。石野卓球もSoundCloudのアカウントを持っていて、過去には曲のデモやDJの録音を公開していたことは知っていたので見てみると、ダウンロードはできないながらも石野卓球のリミックスした「Tutti Frutti」も公開されていた。

 個人的にはトム・ローランズのリミックスより石野卓球のリミックスの方が好きだったので、残り少ない旅程のホテルにいる間はずっとこの曲をかけていた。バーナード・サムナーの憂いを帯びた歌声とメロディが、旅先の間抜けな失敗による憂鬱と不便になんとなく似つかわしく感じられたからかもしれない。

レコードの上に置いてあるのが当時購入した安いタブレット端末


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