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空き家銃砲店 第五話 <仏間>

境の廊下をこえると仏間だった。遊びに行くと祖父は庭に面した障子を開けはらい、座卓にむかっていることもあった。店は暇だったのだろうか。広さは床の間、板の間を抜くと、10畳ほど。足のついた茶色のテレビもここにあったように思う。

隣の居間との襖沿いに置かれたのは横幅100センチ、四段の中国風飾り棚。材は花梨で、母によると「この家にはこれくらいのものじゃないと」とふらりと訪れた人にすすめられ、気を良くした祖父が買ったものだと言う。今はヤフーオークションにあふれているが。

上段には蘭が彫刻された4枚の引き戸、中段の棚にはダイヤル式の黒電話と電話を保留にするための優雅なオルゴール。黒電話には保留機能がないため、電話を保留にするときに使うもので、銀色のY地の腕に受話器をのせると<乙女の祈り>が流れた。

愛らしいピアノ曲を聴きながら右横の、古めかしいお座布団に鎮座するのはこれまた古めかしい仏像。右には、かやぶき屋根の形をした蚊取り用の香炉がのっていた。

下段には開き戸の物入れ、最下段には松をかたどった取っ手がある引き出し。

花梨の棚の隣はやはり中国風の棚、こちらは小棚で黒檀だった。50センチほどのもので、「暗いの」で終わり、飾られていたものは一切覚えがない。物としてこちら方が良いものだった。

部屋の中央には正方形の座卓。部屋にはまったく似合わないが、伸び縮み電傘がぶら下がっていた。本を読むのに便利だったらしい。

部屋の西側、襖の反対側は壁で、開き戸から入って手前から、板の間(床の間の畳の部分が一枚板になっていた)、お仏壇、床の間になる。

板の間は大きな石油ストーブがでんと居座り、その上には4枚の引き戸。飾り棚に仏像。あちこちに仏像があるのは祖父の母がもくもくとお線香を炊いていたからが、骨董に凝った人がいたからか。

お仏壇はキンキラキンであれこれ垂れ下がり、にぎやかである。泊まりにいくと祖母が炊きたてのご飯をお供えしたり、朝夕に南妙法蓮華経と唱えるのを横で見ているのだが、ときどき退屈のあまり、すすけたおりんを叩くと、おりん布団からすっ飛んで行った。このおりんは全面に亀甲模様が打ち出された上にゆがんでおり、底が不安定だったのである。

昨今、床の間は無用の長物で、掛け軸がかかっていても荷物置き場扱いされるが、昭和の家には<床の間には飾り物>が常だった。

この家にも螺鈿の台に焼き物の寒山拾得の立像、日本画が飾られていた。しかし、焼き物も掛け軸も私の興味をひかず、祖父たちからも壁の一部のように扱われ、本来のように季節に応じてかけ替えることもなかった。

子ども心に一番美しかったのは床の間の横、書院作りの欄間だった。欄間にはデザインされた花が透かし彫りにされ、繊細な障子がその下に4枚連なる。ここから挿す光もまた庭を借景とし、一枚の絵のようだった。

おまけ

仏壇の位牌には祖父の末弟、恒男の位牌があった。戦争と関係なく南の海でなくなったと言う。独身だった彼のため、祖父は<穂高家代々>と刻んだお墓を建てた。


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