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ため息俳句 九月一日

 自宅前の道を中学生が下校してゆくのだが、部活終わりだから、遅くなる。その子供たちの声が聞こえてきた。
 「暗くなるのが、早くなった?」
 「秋になったんじゃない。」
 そう、女子の会話が行き過ぎた。

少女らが秋が来たヨと通り行く


 陽が短くなってきた、その通りですよお嬢ちゃんと、爺はひとり呟いたのであった。
 庭の草木に妻が水やっている、そのせいもあってか、吹いてくる風が涼しい。ようやく、秋かなと、感じた今日の夕暮れであった。

なんとまあ長月朔日ながつきついたち秋めけり


 いやァ、この句はいつもにまして、へぼだ。やはり「長月」は、陰暦九月の別称であるからこの句はダメだな。今年は新暦の10月15日が、陰暦9月1日、「長月の朔日」である。今日は陰暦なら7月17日。季語は云うまでも無く陰暦に基づくから、「長月の一日」であれば、秋の最中そのものだ。というより「長月」はもう秋も深まった晩秋だ。今日も暑い一日であったのだから、長月は実感に即してはいない、新暦の時間と陰暦の時間のズレの上に「季語」なるものがある。

 長月は菊月とも云われる。こんな季節感である。

菊月のある夜の足のほてるかな  鈴木真砂女


 稲狩りだって。

長月や明日鎌入るゝ小田の出来  酒井黙禅


 新暦の9月を、「長月」というのはやっぱりダメだろうと、云いつつボツにしないで、ここに晒しておくとは、もとより似非俳句故にて。
 
 ついでに言うと、常識的には「長月」と「秋めく」は共に、秋の季題であるし、「長月朔日」を「九月一日」としてみると、どうかと思うが、句としては救済されない。
 細かにいえば、文末の「り」もいかがなものか。
 そうであるが、今年の異常な暑さの日々で、ようやく9月に入った今夕、秋を感じることができた、という素朴なうれしさを、ここに記録しておこうというだけのことだ。

 さて、9月1日は、これはこれで忘れてはいけない歴史を振り返る日にあたっている。             

 今日は震災忌である。
 関東大震災を体験した人の歌である。

休みなく地震ないして秋の月明げつめいにあはれ燃ゆるか東京の街   

与謝野晶子

大正十二年九月ついたち国ことごとしんとおれりと後世のちよいましめ  

北原白秋


 その時、白秋は後世の自分らに警告の歌を残している。その警告は今も生きていて、例えば東日本大震災があった。そうして南海トラフ、東京直下と、危機感は増すばかりの現在に生きている。・・・、はずだが、・・・。

こんな歌もあった。

北海道の山中にありてわが時計を震災記念の時間とあはす 

斎藤茂吉


 初出を全部書き換えてしまいました、始めに読んで頂いた方々、ごめなさい。