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ため息俳句 つれづれに柿の種

 亀田製菓の柿の種は、我が家の常備食品である。それも、子袋に分けられてあるやつだ。
 毎日毎日食べるというものでなくて、例えば、テレビも飽きた、本を読むなんてことも面倒だ、などと怠惰が極まる辺りで、子袋の口を開け、ぽりぽりやる。つれづれに、食べるものだ。
 このブログも、徒然なるままにということが多い。そういう時間は、兼好さんに限らず誰にしもあることだろう。
 その「つれづれ」だが、佐藤春夫訳・現代語「徒然草」(河出文庫・2004)では、序段をこう訳す。


鬱屈のあまり一日じゅう硯にむかって、心のなかを浮かび過ぎるとりとめももない考えをあれこれとかきつけてみたが、変に気違いじみたものである。

 「つれづれなるままに」というところを、「鬱屈のあまり」とぐっと踏み込んで訳している。一般には「手持ちぶたさで退屈で」とか読まれている。それを、鬱屈というとまあそうだったかもかも知れないなと、思えてくる。
 そんなとき、兼好さんのもとにも柿の種があったら、ぽりぽり食べたりしただろうかと、・・・、多分食べたな。

「徒然草」といえば、第九十七段が面白い。佐藤春夫訳では、以下のよう。

その物に付着して、その物を毒するものが無数にある。たとえば、人体に虱、家に鼠、国に盗、小人に財、君子に仁義、僧に法など。

 ここで、「君子に仁義、僧に法」とある。君子は本来仁義を重んじ理想と生きる。僧は、仏法に帰依して悟りを目指す。なんでそれが、「毒するもの」なのだということだ。
 兼好さんはいいなと思うのは、こういうところだ。仁義であれ、仏法であれ、それに執着してきちきちになるとか反って身を滅ぼすようなことになりかねないぞと、いっているのだと思う。
 こんなこという人だから、硯の脇に柿の種があったら、兼好さんの憂鬱も少しは薄れたかも知れない。

・・・・、また支離滅裂な終わり方で申し訳ない。


長閑のどけしやクロワッサンと柿の種  空茶


 唐突にクロワッサンが出てきたのは、なり行きである。