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【非連載】人類に飽きたおまえはいますぐ円城塔の『エピローグ』を読め

よくきたな。わたしは水原由紀だ。わたしは毎日すごい量のインクを塗りたくっているが、誰にも見せるつもりはない。しかし今回わたしは日本で執筆された最強のSF小説『エピローグ』を読み、いてもたってもいられなくなったので、この記事を書いて公開することにした。2015年に書籍として刊行されたこの作品に何も賞が与えられていないのは腰抜けだ。端的に言ってファックだ。今すぐなんかすごい文学賞となんかすごいカンファレンスがひらかれるべきだ。それくらいすごい。だから何がすごいのかおまえに説明する。おまえはきく。おまえは円城塔の『エピローグ』を買って、読む。

ついでに言うと、この記事はダイハードテイルズにて連載されている逆噴射聡一郎先生の記事を元にしている。要するにある種のパロディであり二次創作だ。それはどちらもじゅうようなことだ。特に円城塔的宇宙においては。

今すぐ読まないやつは腰抜けのチッワワ

耳ざといおまえは、すでに「円城塔」という文字列をTwitterとかのタイムライン上で目にしているかもしれない。だがおまえは妙に自分の好きなジャンルへのこだわりがあり、「SF小説・・・・うちゅう船とかサイバーパンクとかそうゆうやつだろう・・・・・」といった石器時代のような決めつけで書店にもAmazonにも行かない。ウィッキーペディアの「円城塔」のページすら見ない。書評ブログかなんかを読んで「ふーん、難しそう」「メタフィクションか・・・いいね」とか言ってわかった気になっている。これでは完全な腰抜けだ。ベネズエラでげすな悪党に遊びでメスをキメられ、ひとしきり笑い物にされたあと脳天をぶち抜かれて死ぬあわれなチッワワのようなものだ。

おまえは自分のいる部屋の外に出ないか? 猫好きは犬が嫌いなのか? わたしは猫が好きだが犬も好きだしペンギンはもっと好きだ。そして円城塔の『エピローグ』は最高だ。チッワワはかわいいが、残念ながら円城塔的世界観ではチッワワのままではしんでしまう。突然外宇宙や並行宇宙のどこかからOTC(オーバー・チューリング・クリーチャ)が現れて、おまえはありえないほどの崇高と美と畏敬の念につつまれて死ぬ。だからおまえはランボーも見るし、となりのトットロも見るだろう。エイリアンも見るしラ・ラ・ランドも見る。FGOで周回もするし、スプラトゥーンで友達の顔面にスぺ強ジェッパをキメる。PUBGの腰抜けチーターどもを絶対に探し出してハゲタカに食わせる。コインチェックのセキュリティ不祥事についてかんがえる。タスマニアですごくでかいカニを探す。そう、わたしたちは、そしておまえは新しいことを学び続けることができる。チッワワにはチッワワの世界しかないが、違う世界を知り、学ぶことでチッワワから抜け出すのだ。これはそうゆう話だ。

ついでに言っておくと『プロローグ』という小説もあって、『エピローグ』はこれと対をなしているが、『エピローグ』だけで読んでも最高におもしろい。安心しろ。誰も片方だけ読んでいることをバカにしたりはしない。そんなことをするやつは全員チッワワにすぎない。だから読め。おれたちは読み、そして書くことで不可逆的に変化する。腰抜けのチッワワは昔のおれだけでじゅうぶんだ。

脳がばくはつして「やべぇ」「パネェ」しか言えなくなった宇宙

エピローグが何なのかについても、わたしは落ち着いて説明しておくべきだと思った。エピローグは小説だ。それは日本の作家である円城塔(えんじょう とう/Enjoe Toh)が書いた。円城塔は主に純文学とSFの2つのジャンルで小説を書いている。おまえは純文学やSFにどういうイメージを持っている?「ふーん、純文学? 長くて漢字が多くて、話の筋がしっかりしていなくてポエムな感じの文章や情景描写が多いやつでしょ? めんどくさ」おまえはいきなりそうやって決めつけてどうしようもない。つまり、おまえはこの時点で百個くらい間違っている。いや千個くらいかもしれない。

だがわたしはすこしだけかしこい。だからここで純文学とかSFのジャンル分けについての話はしない。たいていこれは「かわいい女の子が表紙に書かれていたらラノベ」みたいなかんじで地獄のカマのフタを開けるようなものだ。やめておけ。円城塔とエピローグがどれだけ素晴らしいかについて書く、ジャンル論争はチッワワにまかせろ、哲学者はぎ論をしない・・・・・スピノザもそう言っている。

話をエピローグに戻そう。冒頭で書いた通り、これは2015年に書籍として刊行された。もとは雑誌連載だ。はっきり言って内容は無茶苦茶で、脳みそがばくはつするほど頑張って要約すると「宇宙がヤバいことになったから、人類がシミュレーションの中に避難してなんとかやってる世界の話」ということになる。人類がいた基底宇宙(=この現実世界と同じく物質的裏付けを持つ宇宙)がOTC(オーバー・チューリング・クリーチャ)という規格外のばけものみたいなやつらに好き勝手改変された結果、宇宙の情報量=解像度はビットコインのチャートみたいに爆上がりし、人類は頭がフットーして何を見ても「やべぇ」「パネェ」「尊い」しか感じないサルになった。おまえは圧倒的な情報量を前にして脳みそがパンクした経験はあるか? わたしはある。そういうやつだ。

では「やべぇ」「パネェ」「あっ・・・・いい・・・・・・尊い・・・・」しかなくなるとどうなるか? ひとはメシを食うのをやめ、よだれをたらし、飛行機は墜落して大地に突き刺さり、あらゆる交通は破かいされ、原子力発電所は土曜の夜でもないのにフィーバーする。作中ではぼーっとしていたせいで120億人が餓死したとある。とつぜん渋谷の交差点にブッダとかキリストとかやおよろずの神とか太古の神性存在がしゅつげんしたらどうなるか考えろ。気持ちはわかる。わたしたちも高解像度で周回にも便利、そうゆうホットなベイブをガチャで引くためにありったけのカネを突っ込んで破産したり、なんかやばいドラッグをキメてから恍惚として虹色のゲロを吐いて死んだり、思い思いのそうぞう性を発揮してファックしたり、まあ死んだりするわけだ。とにかくそうゆうことだ。

さて、なんとかかんとかした結果、人間はそれなりにうまくやったらしい。コンピュータの中に基底現実を再現して逃げ込み、その中でうまいこと生きている。これを作中では退転と呼んでいるが、ここから先が余計にややこしい。詳細は読んでみてからのお楽しみだが、おまえはたぶん『マトリックス』やイーガンの『ディアスポラ』とかコチョウのユメの話とかボルヘスの短編とかを思い出すだろう。イタロ・カルヴィーノとかジョルジュ・ペレックでもいい。四月馬鹿達の宴とかもそうだ。そうゆう世界や階そう構造が好きなやつはまちがいなく読むべきだ。

ここまでの話だと『エピローグ』は科学や物理学、計算機科学や数学、そしてそのほかのふしぎなパワーでドライヴされた、わくわくする小説のように思えるかもしれない。実際そうだと思う。ただ『エピローグ』では、それはショートケーキの上に乗ったイチゴとか銀色に光るあの玉とかカラー・スプレーとか、そういうやつだ。『エピローグ』にはもっとやばいやつがいる。知りたくないか? おまえはうなずく。話は続く。

人類の歴史が終わった後に書かれる物語とキャラクターたち

だがケーキの話はおあずけだ。後で話す。まずはその間の話をきけ。『エピローグ』はやばいやつらが宇宙にやってきたというだけの話じゃない。ここまで、おれは小説の筋じゃなくて設定の話しかしていない。ついでに言うと文体の話すらできていない。しょうじきに言うと、話が込み入りすぎていてぜんぶ説明するにはあと3倍くらいの文章量が必要になる。だから飛ばし飛ばしせつめいする。悪くおもうな。ベネズエラではすべてを説明しているひまはない。

やばいやつらが宇宙にやってくるのと同時に、やばい技術が誕生する。それは風がふけば桶屋がもうかるのと同じくらい当然のことだ。惑星をサービスとして提供するPaaS(プラネット・アズ・ア・サービス)にはじまり、しまいには存在を提供するEaaS(イグジスタンス・アズ・ア・サービス)まで出てくる。なんともでかいほら話だが、このほらはおそろしく響くほらで、「なんか宇宙のいろんな決まりがぶっこわれたあと」の世界の話を延々とする。登場人物は右往左往する。登場人物は人格を複数走らせ、破棄し、違う宇宙に降り立ち、死んだり生まれたりする。同時に違う時空に存在してみたりする。もうなんでもありだ。そのなんでもありの描写は良いとか悪いとかを超えていて、なんかすごい。

円城塔の小説の登場人物たちはいつもうす味な人格づけがされているが、同時にどぎつい色をしているからやたら目立つ。いちおう主人公(と思われる)朝戸の味方である、冒涜的というかユークリッド幾何学的にありえない形をしたOTCロボット・アラクネはむちゃくちゃなキャラだ。飼っているモルモットがとう突に等速直線運動をはじめるような、奇妙な愛くるしさがある。ゆだんならないパートナーとして、こいつはきん張感を保ってくれるし、ユーモアも無限に供給する。おまえの脳みそは「?」を百個くらい浮かべるかもしれないが、そんなものは風の前のちりみたいなものだ。人類の歴史をぜんぶ吹っ飛ばしてから登場するやつらは規格外にきまっている。

ついでに文体についても話しておこう。これは映画で言えばカメラ割りや視点のつくりかただったりするし、音楽ならその音をどう演奏するかの部分にあたる。かもしれない。円城塔はかなり引用やパロディや元ネタがある発言をつかう。ただそれは別にわからなくてもなんとなくでも読める。エスエッフのいいところは本当に理解していなくても楽しく、本当に理解していても楽しいということだ。いちいち元ネタをお前のスマッホでしらべなくてもいい。しらべてもいい。おまえは読めば読むほど円城塔のすごさをりかいし、ため息をつくだろう。この作家はとにかくすごくて、すごいんだ。

おまえはエピローグで小説とフィクションのやばさを知る

さて、お待ちかねのケーキだ。さっきわたしはイチゴの話をした。そいつはスポンジ・ケーキと生クリームのように、『エピローグ』の世界全体を包んでいる。真っ赤なイチゴはうまい。わたしも好きだ。だがケーキはスポンジ・ケーキと生クリーム抜きでは語れない。ついでに言うとそのケーキをのせた皿やテーブル、もっと言うとケーキをつくった一流のパティシエ、それからそのケーキを食うおまえとそれについて書いているわたしをふくんでいる。ようするに『エピローグ』はメタフィクションであり、もっというとフィクションとメタフィクションについて書かれたメタメタフィクションなのだ。このへんの定義はチッワワにまかせる。わたしは話を続ける。おまえは聞く。おれは書く。おれ? そう、おれだ。

「は?」みたいな顔をしているおまえにひとつだけ言っておくと、『エピローグ』に出てくるOTCというのはすごい宇宙人とか人類をぜつ滅させるAIとか突然変異したグリズリーとかだと思っているやつがいるかもしれないが、それは甘い考えだ。ベネズエラなら今すぐ喉の奥に毒入りドリトスとなんかやばいラム酒を流し込まれて死ぬだろう。

作中に登場するOTCは「世界の解像度を上げる存在」だ。では「世界の解像度を上げる」というのは一体何なのか。これを飛躍してメタな視点からとらえてみると、「作中世界に新たな情報を与え、その世界をよりくっきりとさせるもの」や「作中世界を改変・改造・創造・破壊するもの」であると考えると、すごく話が分かりやすくなる。要するにOTCとは自分の書いた作品に手を入れる作者であり、そしてそれを眺めて解釈する観察者である。作者や観察者や読者という個人として描くのではなく、むしろ「フィクションに対して作用する想像力それそのもの」のことだ、と言った方が適切かもしれない。今ここで書いている私のように、一瞬だけその世界の在り方を完全な外部から入り込むことで裏返したりしてしまう。そうした存在に物語の内側からどう抵抗していくかということだったり、どう作中人物がそういったものに切り結ぶかについての話としても読める。フィクションについて書いたフィクションだ。「彼は死んだ」と書かれれば、それはつまりその時点で彼は死んだ世界になる。「彼は生き返った」と書かれたら生き返るし、「ベネズエラ出身だった」と書かれたらそうなるだろう。要するにそういう状態になってしまった宇宙についての話であり、虚構なのだからなんでもできる状態になってしまう。プログラミングが完全にできる存在はその言語によって構成された世界をとりあえず好き勝手いじれるのと同じだ。ある程度は。その外側に行こうとすると、言語で書けないことを書くことになる。円城塔は言語の限界や書くという機能を拡張しつつある。私たちは言語で世界を構成し、登場人物=エージェントはその中で生きてその中で死ぬ。暴力的な世界だがこれはプログラミングみたいなもので、書かれたものは全てそこで実装されて実行される。登場人物はメタ的に無防備だからこそ、メタ的に対抗する。やがて登場人物は登場人物であることをやめ、物語の中で進化し、物語を超えるべくして新たな次元へとたどり着く(何を言っているのか分からないかもしれないが読めばわかる。ここまで書かれていることは全部『エピローグ』に書かれているから)。

円城塔の小説にチッワワは出てこない。しかし、ほんらいチッワワみたいに弱い人間=登場人物という存在が、どうやってOTCというくるったやつらと戦うかを描いている。百億の人格を並行して起動することでばかげた計算量をつくりたたかう。じぶんが死んでいる宇宙が84%あり、生きている宇宙が12%あるなら、今ここにある世界がその12%になるように世界そのものを書き換える。OTCを構成する物質「スマート・マテリアル」をやつらからうばい、それを使って最強の演算性能と戦闘力を持ったロボットをつくる。同時に意味不明なラブストーリーとラブストーリー機能不全を起こしているストーリーと反ラブストーリー的存在と多元宇宙でぶつぶつにぶった切られた時間の中で発生した連続殺人事件の話が入る。そこには、チッワワでは決してできない挑戦やたたかいや謎やなんか深えんな知識がある。

円城塔的宇宙は、人間だからいい、人間の良さを礼賛しよう、じゃない。人間でもいい、だ。人間じゃない方がほんとうはいいしかしこいはずだが、人間だからしかたない。それがいい。人間じゃなくなってもいい。そして、たとえ人間の物語が終わったあとの世界でも物語はそこにありつづける。『エピローグ』というのはそうゆう小説だ。それは物語にとっての希望であり、物語を書き、読み、見て、聴き、味わい、感じ、生き、そして死ぬものたちに捧げられた、物語のための物語なのだ。そしてそれは、既に去ったものたちと、これから来たるものたちに対しても響きあうだろう。これは存在しない存在のために捧げられた想像/創造力だ。そこにはフィクションのフロンティアが広がっている。だから読め。言語と物語という人類史上最もでかいフィクションの中で生きているおれたちには、『エピローグ』が必要なのだ。


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