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必要なのは「黙って話を聞いてくれる人」

誰かと会話すると、意図せず聞き役に回る事が多い。話しやすいから、と言うより、あまり話に割り込む真似をしないからだろうか。相談やら悩みやら、色々私に話してくれる。一種の信頼もあるのだろうか…だとしたら感謝するしかないが。

私は人に対して「自分のこと」を話すのが苦手だ。自分の状況、環境、性格、やり方を全て説明した上で、自分がどう思っているか、自分がどう感じたか、何が嬉しくて何が嫌なのかを理解してもらう必要がある。

正直な話、「友人・知人」や「職場の人」と言うのは、前述の内容を全て話理解してもらわない事には話を進められないと思っている。そして私の望む会話としてはこの流れほど邪魔なものはない。何故なら、私がこう言う話をし始めた時は「相談」ではなく、本気で「黙って聞いていてほしい」だけだからなのだ。

頷かなくてもいい。そっぽ向いていてもいい。相槌が曖昧でもいい。私の感情がブレない様に、ただ真っ直ぐ話が出来るように、無感情に無感動に聞いていてくれればいい。私は、自分の「辛い」を語るのが一番苦手だから。口にしてしまうと、壊れる気がするから。

現に過去に一度だけ、感情が振り切れて泣いたこともあった。付き合いの長い友人を前に、だ。彼女には感謝している。ただただ話を聞いてくれたことに。それに話した直後はとても気が落ち着いたし、何より心の整理が出来たと感じた。
しかし、その後ずっと心のどこかで引き摺っている自分がいる。「泣いてしまった」と言うことが、自分の心の重りになって生きてしまっていると、最近気付いた。自分にとって、自分の感情を出す事が、何より「辛い」のだと。

人と話している時(真面目な場を除き)、割とにこにこしている事が多い。辛かろうが痛かろうが、笑っている。明るい声で「いやーツライっすよねー」と言っていれば、自分に嘘はついていないし誤魔化せるから。笑っていないと崩れる程に追い詰められている…と言うのも事実かもしれない。

昨日、母が諸般の事情でやってきた。特にそんな大きな話をしたわけでもなかった。それでも、他の誰とも違うのは、私の事情も環境も何も言わずにたった一言で理解してくれるところだ。正直、宗教家としての母は嫌いだが、一親としての母は私の理解者なのだな、とこの時ようやく認識した。実家に居た時はそう思ったことさえ無かったから。離れてみてわかる、というのはこういう事なのだろう。

私は聞き役に回る事が多い。それは母に対してもそうだ。しかし、圧倒的に違うのは、たった一言を受け止めてくれると言う事だろう。誰よりも、しっかりと。私には、そういう人が必要だったのかもしれない。

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