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「あの人に見て欲しい」なんて我儘な願いをひとつこの胸に

3ヶ月達成を目前に控え、物凄く我が儘な願望を持っているということを今のうちに露呈させておこうと思う。…いや、前もどこかに書いたかもしれないけど。

私は長らく継続してきたことによる実績と言うものを持っていない。何事も中途半端で、始めては投げ始めては投げを繰り返してきた。最近になってようやく「面白いな」と思うもの、「やりたい」と思うものに出会えたと言うのもある。それでもやはりまだ『実績』と呼ぶにはあまりにもお粗末なレベルとクオリティなのは事実だ。

何も続けられないと言う事実は徐々に精神的な弱さに繋がる。そりゃあそうだ。自分が自分に対して『継続精神の無い人間』と言うレッテルを貼ってしまっているわけだから。そうなると厄介なのは、何か新しいことを始めたくても「どうせ続かないのにまた何か始めるの?」と言う卑屈な自分が現れる。私の「やりたい」と言う前向きな気持ちを無遠慮にもへし折ってくるのだ。

1つの事を継続し続けると言うのは本当に大変なことだ。継続出来る環境を維持することも、継続しなければと思う気持ちの維持も、自身の在り方によって簡単に損なうことが出来る。「やりたいと思ってるけどつい…」と言うのもこの内に含まれるのではないだろうか。別に心の弱さがどうこうと言ってる訳ではない。習慣付けると言うのは膨大な精神力を要するのだ。

そんな私が『毎日note』を始め、3ヶ月…90本程度まで書き続けたのは、最早「動機が不純」以外の理由がない。…我ながら酷いな。

私はライター業でも無いし、字を書くことについてはド素人だ。それでも字を書くことは好きだったし、何より私が私を一番表現出来るのが絵や写真ではなく文章だったと言うだけの話なのだ。

前述の「動機が不純」について、敢えて申し上げるならば『有名になりたい』と言うものではない。私の文章が読み手を選ぶだろうことは私が一番よくわかっているし、好き嫌いが分かれることもわかっている。

タイトルにもあるとおりだが、「あの人に見て欲しい」と言うのが私の目的だ。どんな形でも、ひとつ目に届けばその後は継続して見て貰えるかもしれない。何かしら響く物があれば気に留めて貰えるかもしれない。そう言う「動機」を持って続けていると言うことをここに懺悔したいと思う。

見て貰えた先のことはまだ考えていない。何かしらその内により「不純な動機」に姿を変えるかもしれない。…言い方が本当に酷いな。でも本意だ。

誰かが言っていた。『物事を続ける動機は不純であればあるほど続きやすい』と。今ならわかる、その気持ち。
以前書いた習慣付けの話と併せて言うならば、「強迫観念」は「続けなければ見てもらえる可能性が0になる」、「成功報酬」は「続けていればいつか見てもらえるかもしれない」という両極端な答えを持つだろう。正直、それでも良いんじゃないかなって思っているところはある。

所詮は自己満足。「いつか」はやってこないかもしれない。それでも期待して何が悪いんだ。願うだけ無駄?叶いはしない?

そんなもん、試してから言ってくれ。アンタはだめだったのかい?


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