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哲学者”擬”の理由

私はnoteのプロフィールに「哲学者擬」という言葉を入れている。実はこれには一応理由がある。

そもそも私は哲学者ではない。哲学者とは俗に「哲学を専攻する者」なのだが、私は哲学を学んだわけではないので、100%の哲学者ではないのだ。では何故「哲学者」と言う言葉をプロフィールに入れているのか。

一時期、その独創性からブームになった自己分析ゲーム「ALTER EGO」というゲームをご存知だろうか。エスという女性から出される様々な心理テストに回答していくことで自分がどういう性格で、どういう性質で、どんな考えを持っている人間なのかを見ることが出来る。

普通、ゲームなのだし心理テストなんてその時々によって回答内容が異なったりするのだから、毎回100%同じ回答を叩き出せる様なものではないのが「心理テスト」というものだと私は思っている。しかし、リリース以降何回繰り返しても全く同じ結果を出す診断があった。

「自我理想の傾向」というものなのだそうだが、これが、上から下まで一言一句違う事無く全く同じ診断結果が毎回現れる。良くも悪くも「考えが変わらない」人間であり、ぶれない、という事なのだろう。

この診断結果のほかにも、分析者だの思考型だのと、とにかく「考えること」に特化した性格であるという事をありとあらゆる診断によって下されてきた。正直「本当に~?」と疑いの眼差しを向けているところもあるが、もしかすると当たっているかもしれないのだ。

「わからないこと」があった時、どうするだろう。知っている人に訊く?自分で調べる?わからなくていいやと放り出す?時に寄りけりだろうが、私は大体「自分で調べる」という選択肢を取る。調べて調べて、答えを出せれば儲けもの…どんなに調べてもダメだった時に初めて他の知見者の知恵を借りるという事をする。

とにかく知りたがりなのだと思う。ふと見かけた意味の知らない言葉、今まで使っていた言葉でさえ「本当はどんな意味を持っているんだろう?由来は?」と調べ始めることもある。特に言葉というのは奥深さ故に、誤った意味で使い続けているものも多くあるだろう。何気なく書いた文字を見て「本当にこれは正しい使い方か?」と調べて時間を潰すことも屡。

そもそも哲学者とはどういうものかご存知だろうか。実は「神」を学術の対象としているのだそうだ。宗教家なのか、と思うかもしれないが、この「宗教家」という分類とほぼ対極の位置に存在しているのが哲学者なのである。

宗教家は、神を信仰し、その信仰の下多くを救う事を目的として活動している。神の存在について、有無ではなく「信じるか否か」で判断する。いわゆる「信じる者は救われる」の精神なのが宗教家だ。

一方哲学者とは、「神とは一体何なのか?」と考える人達を指す。「神の存在とは?」「どうして信仰の対象になったのか?」「その神にどんな力があるのか?」「ただの神仏像に人を救う力があるのか?」「神を信仰する事によって何があるのか?」「神を信仰する理由は何なのか?」等々…とにかく「神って何なんだ」を考えるのだ。

この話を知った時、物凄く腑に落ちた。私は生まれながらにして「哲学者型」の人間だったのだと。

私の母は宗教家だ。仏教徒である。何かあるたびに「仏壇へ行け。仏様に祈れ」という。私にはそれが意味がわからなかった。なんでそこにある像に祈りを捧げるのか。それによって何が変わるというのか。それで受験に合格できるのか?それでいい会社に入れるのか?それで病気が治るのか?そんな訳ないだろう。だってそこに居るのは「ただの像」だ。

こんなことを言い始めると世の宗教家全てを敵に回しそうなのだが、私にとって既に宗教家はある種の敵なので致し方なしと思っている。だって、理解できないんだもん。なんで居もしないものに祈るんだ。

神様を100%信じていない訳じゃない。私が信じていないのは正確には「家の仏壇に祭られている仏像」なのだ。お寺や神社に祭られている神仏像には何かしらご利益があるのだろうなと思っている。実際にお願いごとして叶えてくれる御宮もあれば、全く話聞いてくれない所もあるから。そこに何かしらの「意思」があるからだと思うことにしている。神様も元々人だからね。元が人なら、人と人との相性とかあるから。

話を戻そう。自宅の仏壇に祭られている仏像に果たしてどれほどの意味があるのか。誰がどうそこに「ご利益」となる要素を詰め込んだとしても、私にとっては部屋に飾られているぬいぐるみと大差ない存在としか思っていないのが事実なのである。それに対して熱心に毎日経を唱え、有り難がることに理解が追い付かない。…つまり、この思考回路が私が「哲学者」を銘に入れる理由なのである。私は「神とはなんだ?」を考える人間なのだ。

ただ、本物の「哲学者」ではないのは前述の通り。ならば「擬(もどき)」の一文字を追加して「哲学者擬」としてしまおう、と考えた。こうして私はそれを名乗ることにしたのである。

「宗教家」と「哲学者」の話を知ってからようやく母の信仰する「それ」について「これは理解しなくても良いものなのだ」と分かった。どう頑張っても、私と母は相容れない。何故なら母は神を一心に信仰しており、私は母が信仰するその神の存在を疑って生きているからだ。

一応、本物の哲学者の皆様の名誉の為に申し上げておくが、哲学者は決して神を蔑ろにしている訳ではない。ただただ「不可思議なその存在の正体を知りたい」という、この世における最も不確定なものを学び・調べ・知りたいと考えているだけなのだ。

きっと私も、私の中で「母の信仰する神」が理解できる範疇に到達すれば、もう少し母を理解する事が出来るのかもしれないな…。

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