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サイエンスシティつくば

街にはそれぞれのストーリーがあり特色があると思うが、私が育ったつくばという街もまたクセの強い街だ。
筑波研究学園都市、国家プロジェクトとして国の試験研究機関や大学を移転することによって東京の過密緩和を図るとともに、高水準の研究と教育を行う事を目的として作られたサイエンスシティ。
実際、宇宙飛行士やノーベル賞受賞者を輩出している。

私たち一家が引っ越してきた30年前、つくばは、まだ「できたて」だった。
それまでは、愛媛のボロボロの古い社宅に住んでいたので、新築の社宅に母は喜んだ。
社宅だけでない。父の勤める研究所も、私と弟が通う小学校と幼稚園も、デパートも、ショッピングセンターも、バスセンターも、公園も、何もかも「できたて」だったのだ。
東西南北に走る大通りの両脇に佇むうっそうとした緑に囲まれた研究所は、整然としていて人工的で、すっきりしているけど冷たい、人の気配があまり感じられない、そんな印象だった。さらには娯楽・商業施設が極端に少なく当時は電車も通っておらず「陸の孤島」だった。
つくばシンドロームという言葉があるくらい、転居してきた研究者の自殺者が相次いだというのも頷ける。
西日本出身の両親は、縁もゆかりもないつくばに来て、異様な街並みに唖然としたらしい。
住んでからもなかなか馴染めないとみえ、定年したら自分の地元に帰りたいとよく言っていた。
私自身も、出身地を聞かれると困ることがよくあった。

今住んでるのはつくばだけど、自分のルーツはここではないと。

(延々この街並みが続く)

クラスメイトも引っ越してきたばかりの何らかの研究所勤めの父親を持つ子供たちがほとんどだった。
それは、「サンソーケン(産総研)」「コーエネケン(高エネ研)」「キショーケン(気象研)」だったりしたのだが、いずれにせよほかの地域から転勤してきた「よそ者」だった。
だからつくばは、ゴールデンウィークやお盆やお正月は不気味なくらい人がいなくなった。
皆、それぞれの故郷に帰省するからだ。

30年以上の時を経て、街は少しくたびれた。研究者用の宿舎は老朽化を理由に取り壊しが決まった。
つくばエクスプレスが通り、イオンが出来て、町の中心地が移動し、つくばで唯一のデパートは閉店してしまった。

(閉店したつくば西武。閉店まで長らくつくば市民にとって唯一のデパートだった)

当時つくばに呼び寄せられた若き研究者たちは、もうおじいちゃん。我が両親も仕事を引退し子育ても終えた。私と弟はつくばを出たが、あれだけ愛媛に帰りたいと言っていた両親は、未だつくばに住んでいる。どうやらつくばを終の棲家とすると決めたらしい。

毎年正月には、弟が孫を連れて帰ってくるのを心待ちにしている。「つくばあば」「つくじいじ」と呼ばれとても嬉しそうである。

街は生きものというけれど、つくばもまた時を経て、ようやく誰かの故郷になったのだ。

編集:アカ ヨシロウ

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