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親の介護の準備について

友人の親とのさまざまな話を聞くにつけ、介護には準備が必要だと感じる。じつをいうとうちの家族はほとんど交流がなく、実質ほぼ他人だ。憎しみもとくにない。交流もとくに無いし、たまに盆や正月に挨拶をする程度である。介護なんてたいそうなことをいっているが、両親はいまのところ健在で、夫婦仲が悪い以外はとくに悪いところはない。

それでも、とふと考える。この状態で急に介護がはじまった場合、親とおなじ部屋で一緒にいて会話が続くだろうか。とくに同じ趣味があるわけでもないし、お互いの好きなものすら知らない関係。これは親子として普通なのだろうか。家庭事情は人それぞれちがうだろうけど、親子であるかぎり、さまざまな問題から逃れることはできない。まあ、最近ではいろいろ放置してニュースになるケースもあるようだけど、さすがにそこまで人非人ではないつもり。

人間は基本的に、相手を視認して会話を重ねることで親近感を持ち、大切な存在だと感じるようになるのだという。いまはまったく親と会っていないけれど、実家にいるころは何度も視認して会話した仲だから、昔のよしみでいまも関係が続いているのだろう。長期記憶だとか、大脳辺縁系だとかに思い出が染みついているのだ。しかしアップデートはされていない。

最新版の親はなにができてなにができないのだろう。まず現状を把握する必要がある。うちの家族は秘密主義で、なんだったら祖父の死もギリギリまで秘密になっていた。おそらく意図的に秘密にしたいわけではないのだろうけど、基本的に家族全員がコミュニケーション不足で、自分が必要としない情報を、他人が必要としているとは思い至らないだけなのだ。親戚から「もっと早く知らせてほしかった。そうすればおじさんが生きているうちにお見舞いにいけたのに」などと苦情をいただいていたが、反省点は活かされず、祖母の死もギリギリまで秘密になっていた。

おそらく親はギリギリまで自分達の病状を隠すのだろう。いままでの経験からいって急にオープンな家庭になるとは思えない。介護は急にくると想定しておくべきだ。しかしそこを起点にしてしまうと、親を知るチャンスは少ないかもしれない。介護には実質的な世話が必要ではあるが、一番必要なのは精神的ケアだといわれている。愚痴を聞いたり快適な環境を用意するのは家族の役目なのだ。ケアマネさんは一般的な助言はしてくれるが、家族特有の事情には介入して来ない。まだなにも問題がない元気なうちから、親との交流を再開して介護時の精神ケアに備える必要があるのかもしれない。

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