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月の幻影性〜なぜ月を語るのは難しいか

なぜ月について語るのは、こんなに難しいのでしょう。

第一には、月の象徴の多義性が挙げられます。
月に対しては多様なイメージがあり、多種の受け止め方があります。多くの文化の根源的なところに埋め込まれていたり、逆に歴史の上で変化して来た部分もあります。月のイメージはあまりに豊穣、根源的、そして歴史的な変容からの幅があるのですね。

また第二には、月の象意が常に両義的なものであるということ。
創造と破壊、美醜、聖と俗、生と死、心地よさと恐怖。
月は常に、女神として持ち上げられたり、逆に貶められたりしています。両極端さの象徴でもあるのです。

第三に、月は根源的にエモーショナルな話題であるということ。
月というのはそもそも「理屈で割り切れないもの」の象徴です。※
それについて語るとき、人はニュートラルでいられません。理性的に語るということがそもそも月の象意から外れることだからです。

正しく語ろう、直視しよう、とすればするほど、月は幻影になります
プルーストの小説における女性たちのように、捉えようとするからこそ決して捉えられず、捕まえる隙から逃げ出してゆくのです。

それでもこうして言葉にするのは、どうしてかというと、そうするのが楽しいから。言葉にできないものをなんとか言葉にしようと骨を折ることが楽しいからです。

私は月について、「正しく語ろう」とはこれっぽっちも思いません。ただ月のイメージの豊かさに酔いしれて、その読み解きを楽しむことしかできないと、自覚しているからです。

「本来言葉や思考で語り得ないもの」について語るということは、通常の言語では到底無理なこと。そのために人間は、理性を超えるような詩的な言葉を発明し、発展させ、捉えきれないながらもその幻影を写し取ろうとしてきました。

そういった芸術性も、月の象意の一つです。


<続く>

※ 私は月を、ホ・オポノポノにおけるウニヒピリのようなものとして捉えることがあります。これはまた、別の機会に記事にしたいと思います。

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