見出し画像

「いい人」も「悪い人」も、この世にはいないみたいだ。


ここ最近、心配性で神経質で、愛しい友人と会話をしていて、思うことがあった。その”思うこと”をベースにして、今日は簡単に、わたしの生きる姿勢、みたいなものを書いていこうと思う。

絶対的に「いい人」なんていない。相対的に「いい人」がいるだけ

恋人でも友達でも家族でも、なんだってそうだ。絶対的にいい人なんていない。いい・悪いなんてのは当人たちの関係、価値観、利害関係エトセトラ、複合的な要素から、当人が「勝手に」判断するものだ。絶対的にいい人なんていない。それは時間によっても変化する。昔のいい人が悪い人になり、悪かった人が、今の自分にとってのいい人になる。死んだ親父に向かって、厳しくて大嫌いだったけど、いまならそれが愛情だったとわかる、なんていうありがちなストーリーは、典型的な例じゃないだろうか。

白か黒かは、神のみぞ知る。人間が知り得るのは、そこにグレーがあることだけだ。じゃあ、どうすればいいというのだろう。


世の中の8割を悪い人と思うか、いい人と思うのか

ずばり答えはどっちでもいい。

事実とか真実とかは変わらないし、平々凡々な我ら人間にそんなものは観測できっこないと思っている。ただ、このSNS世界において、目の前の無数の人間が自分に危害を加えるかもしれない、と思って過ごすのと、なんらかのいいことをもたらしたり、あるいは受け取ってくれるかもしれない、というのでは、心持ちは変わってくる。私は後者の考えをしている人間だが、これはリスク管理をしないとか、悪いことをする人はいないと思っているとか、そういうことでは、全くない。人間はときにおかしいことをするし、すごく危ないひとはいるし、無差別だったりもする。幽霊より怖いのは人間だとはよくいったもので、そのとおりなのである、これはマジ。となると、自分のオモテをどっちにするか、の問題である。

わたしは自分の精神衛生を保つことも考えて、基本的には、つまり表面的には、まわりの人間や、SNSでかかわる人々を、いい人だと思っている。しつこく言うが、これは信頼しているとか、そういった問題でない。


悪い人間がいることを知っておけ。ただそれだけに精神を奪われるな

親友がわたしのSNSを見ては、たびたび「悪い人もいるから、〇〇の話はやめたほうがいい」といった話をしてくる。心配してくれるのは、とてもありがたいことだ。

人が人を騙したり、こころない人がいることは知っているつもりだ。

わたしは小学生の頃からネット制限なしのケータイを与えられたことで、小学生のうちに1回、中学生のうちに1回、詐欺にあっている。正しくは、小学生のときは詐欺にあいかけただけで、被害は受けていない。電話先の詐欺師が、あまりに幼い私を騙してもどうしようもないと思ったのか、情けがあったのか、脅すだけ脅して、引いてくれたのだった。数日後にサイバー警察からと思われる電話があり、泣きながら話したのはいい思い出である。中学生にあった詐欺では、実際いくらかの被害にあったものの、途中詐欺だということに気がつき、自らやりとりを辞めた。

もっとも酷いことは、自営業をしていた両親の会社が、内部社員の作為によって潰れるまでに至ったことだ。さらにつらかったのは、両親に嘘をついた社員について、おそらくは当時わたしだけが、悪い人間であることを勘付いていた点だ。小学生だったわたしは、事が完全に収束するまで、いや収束したあとでさえ、なにひとつ意見することはできないままだったのだが。

まあまあ、そんな思い出話は重要ではない。
自分自身詐欺にあい、また身近な人間が騙されてきた反省としてあるのは、「ちゃんと考えろ」ということである。うまい話を信じるのは当たり前にだめだし、ちょっとした違和感を見逃してはいけない。一般的に怪しいと思われいるものについて知らなければならないし、そのために、まずはなんでも検索して情報を得なければならない。

騙されたあと、あるいは(わたしは夜道を男性に襲われた事があるのだが)被害にあったあと、というのは、精神的に落ち着かず、過剰に怯えてしまったり、あるいは反対に攻撃的になってしまうものだ。それは仕方のないことだろう。

倒産した事業の関係で親がなぜだか狙われていた時、わたしは誰もいない家に戻るのがこわかった。きっと誰かが刃物をもって出てくる、そんな気持ちでびくびくしながら家のドアを開けて、息を止めて靴を脱いでいた。

夜道で襲われたあとの三ヶ月もそうだった。大通りに面した道路でさえも、歩いていて後ろから人の足音がすると、振り返らずにはいられなかったし、過剰に身体が反応した。

幸いにも、時が経てば、大抵の症状はよくなるものだ。そういう不可避な不安定状態から抜け出せた時、わたしたちは理性でもって、これからの態度を決めていかなければならない。

健康的に生きることを望むのなら、リスクだけに精神を奪われていてはいけない、というのが私なりの結論だ。「突然悪い人間が目の前に現れて、自分を襲ってくる」リスクを長い時間考え続けるのは、どう考えても精神的な負担が大きい。少なくとも、それを考えながらハッピーには過ごせないだろう。長くも短い人生、どのように生きていたいか、また身近なひとに自分のどんな姿を見せていたいか、を考えた時、わたしはリスクだけに目をむけ続けることはできないと考えている。


愛している人は例外(おまけ)

はい、ここからほぼポエムです。

わたしはほとんどの人間を「いい人」だと思い好意的に接しているが、相手の言動をすべて信じるとか、相手が自分に不利益のある行動を起こさないとは思っていない。それはこれまでに述べた通りだ。

ただ、例外がある。

ほんとうに少ないが、何人かの愛すべき友人である。彼らはわたしに刃物を向けず、金銭を奪い取らず、わたしの幸せを願っている、と信じている。信じるということは、騙されてもいいということだ、なんて歌詞が、BUMP OF CHICKENの曲にあったが、わたしのなかでもまた、そういうことになっている。絶対的にいい人間なんていないけれど、わたしは愛したひとたちのことだけは、絶対的に信じている。それは愛しているからだ。信じない人生なら傷つかずに済むのかもしれないが、わたしは人間らしく幸せとか感じたいので、ときにひどく落ち込むことを覚悟で、彼らを愛している。


サポートまで……ありがとうございます。大事に使わせていただきます。