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大学心理学准教授の立場から「信頼のおける話し手」

  今からお話しすることは大変に当たりまえで、したためるのも申し訳ないことですが、それは「何を話しているか」よりも、「誰が話しているか」の方が、大切であり、重要だということです。

  おそらく、この言葉を聞いて、反対の意を唱える人は多いかと思います。もう少し言葉を尽くすと、「話し手が誰かという重み」「その話者に対する信頼度」というのは、その度合いによって、受けとる内容が変わっていく。場合によっては、まったく別のものにすら変化してしまうということです。

  ここまで言うと、「それは当たり前のことだ」と感じてくれる方もいらっしゃるかもしれませんし、「いや、やはりそれは違う」という方もいらっしゃるかもしれません。反対の意見をもう少し明確にするのなら、おそらく「内容はもっとも大事なものであり、一義的なものである」「話されている内容というのは絶対的である。話者によって左右されない絶対的な内容はある」ということでしょうか。

  しかし、わたしたちは往々にして、話し手が誰かということで、受け取る内容を変え、話し手に対する信頼によって定められた内容を、受け取っています。それは、知人との会話は勿論、ブログの記事やエッセイ、随筆などにおける影響はもの凄いものであるし、説明文、論説文、真であることを証明された科学の論文でさえそうです。

  例えばあなたの友人が旅行に行き、何か美味しい(あるいは美味しくない)土産を持って来て、訪れたところの話をします。その体験、感情は勿論、事物さえも、あなたが無意識的に持つ彼もしくは彼女に対する信頼により、受けとる内容は違っているはずです。極端な話、全然信用できないオオウソツキなら、本来あるはずの橋が、あなたの中で消えて無くなるでしょうし、絶対の忠誠をもって崇拝している恋人なら、無いはずの湖が出来るかもしれません。まず、旅行者の行った土地という「内容」があるのなら(そもそも、ここからしてわたしは懐疑的なのですが)、話し手への信頼というフィルターを通って、あなたは、ある意味では別のものを受け取っているのです。

  エッセイやブログ、随筆等はもっと面白いことが起こります。それは本質的にはインタビューと変わらないのだ、と言うと怒る人もいるかもしれません。例えば先の旅行者が友人に話した内容そのままに、ブログに記事を書くとします。まったく同じことを言っていても、友人とブログを見ている人では、そのうちの内容が変わるでしょう。それは関係性、立場というものもあるかもしれませんが、やはり、まずはじめに「話し手に対する信頼」が内容を規定しています。

  果たしてブログを書く彼の信頼度はどのぐらいでしょうか。始めたばかりで、ページはテンプレートのまま。読者は居るのだか居ないのだか分からないくらい。何でもない、どこぞの某。信頼度はまあ、あまり無い状態ですね。次に外観を整えて、旅行の写真も載せた。写真を載せた時点で、内容が変わっているじゃないかと思う向きもあるでしょうが、ここは信頼度を上げたと考えて下さい。目に見えるものがある。実際に彼が旅行に行ったのだということをはっきり感じさせる。彼のフォロワーは?手で数えるほどである。どうやら、かなり多いらしい。何万と、あるいは何十万、何百万。いや、そもそも桁が違っている。彼は大学生でしょうか。それとも本も何冊か出している旅行家?仮には、文化人類学者。それは若手の学者であるか。どこの大学であるか。実績はあるか。既に歴史に名を連ねている人物か。

  今あげた様々な人物が、プロフィールだけが違う「同一人物」で、一字一句同じ文章を書いていたとしたら。

  おそらく、そうなれば実際には書く文章も異なってくると思いますが、仮に一人の人間が、一字一句たがわない「同じ内容」のこれらの記事を見たとき、その人間が得た内容はそれぞれもう別のものになるでしょう。会社の飲み会で上司がこれ見よがしにする説教と、既に教義となった大僧正の説法とは、一字一句同じでも、内容が違うのです。権威があれば人は進んで信じ、世界を作ります。逆説的に言えば、進んで騙されるのです。馬に乗った人、真紅のマントを羽織っている人。人間は、見えている服を見ないようにして、その下の裸を見るという能力は、少なくともわたしの知る限りは持ち合わせていないのです。

  それでは、正しいとされている論文は?あるいは、誰が書いているかまったく分からない匿名の文章は?そして、創作、小説のたぐいはどうなのだ。まず、論文についてですが、これの可否は、後述によって解決されるかと思います。匿名の文章ということですが、そもそも、わたしたちはまったく名前の付いていない、純粋な「内容」としての文章を読んだことがあるのかという問題があります。形式、フォーマットのない文章など実際にはあるのでしょうか。例えば新聞ならば、まったく軽蔑している新聞社のコラムか、あるいはアメリカの一流紙か。インターネットであれば、どういったサイトの記事だろうか。紙に書かれた文章。それはノートに書かれたものか。メモ用紙に書かれたものか。原稿用紙か。あるいは古文書か。紙質は良いものだろうか、まるで粗悪な藁半紙か。字は美しいだろうか、どうしようもなく下手だろうか。

  あらゆるものを判断材料にして、わたしたちは「誰が書いているか」を想定しているのです。知らず識らずに無名の話し手を追っている。「或る誰か」を作り上げていると言った方がいいかもしれません。そしてその信用を計っている。

  小説はどうでしょうか。わたしは特に小説における読者の心理を研究しているので、ここからが話の要諦です。まず、有名作家のものか、無名かということがあるでしょう。本の末尾やカバー裏には、作者の名前や肩書き、代表作などがよく書かれています。そこから作品に入る方もいるでしょうし、顔写真を見たがる人もいます。同じように、受賞した賞や、目の飛び出るような数字の売り上げ、広告や宣伝で権威付けがなされるかもしれません。それらの要素を抜きにして、本文だけを読んでも、わたしたちは実は計っているのです。言葉遣いや、文体と呼ばれるもの、文のリズム、構成等により。それはすでに内容と言われるべきでしょうが、「この話を書いた人は信頼できるのか」「進んで騙されたいと思えるか」という考えも、意識的ではないにしろ、間違いなく心の中にはあり、作品を支えているのだということは、なかなか否定しかねる事実です。

  そして、小説・虚構には、話し手への信頼がさらに入り組み、複雑になる場合があります。しかし、むしろそれは「話の内容は、誰が話しているかによって決まるのだ」ということを本質的に表している例と言えるでしょう。小説には一人称にしろ、全知全能の神の視点にしろ、ある語り手が存在します。その語り手が話すことにより、小説というのは出来上がっているわけです。

  彼が、どの程度まで信頼できるかは非常に大事になってきます。それは物語の根幹を作っていると言って良いでしょう。例えば小説のなかには、「信頼できない語り手」が登場し、話を作り上げているものもあります。「彼」「彼女」あるいは「わたし」は、嘘つきであったり、ある事情により現実を曲げて話しているのです。精神疾患の人物が語るもの。あるいは単純に、視覚の不具合によって、全ての黄色が同じ明度・彩度の紫色に見える人間が居たとします。彼が語るヒマワリとヤマブキは紫色なのです。それは、彼によって、事象が変化してしまったともいえますが、本質は、それが小説の内容であり、虚構における真実であるということなのです。

  反対には、むしろこちらの方が一般的ですが、神の視点なら言わずもがな、「わたし」という一人称の視点でも、基本的に、わたしたちは小説のなかの語り手を、絶対に信頼して読み進めます。虚構はむしろ、ノンフィクションよりも、はるかに語り手を信頼することができ、それは、ここで言われていることは真実であるという、前提のもとで成り立っているからなのです。

  小説における「信頼できる話し手」について述べました。最後にちょっとした話をして論を閉じようかと思います。ここに、ある存在が居ります。その存在は、時たま人間に呼びかけるのだが、道行く人は、まるで聞こえないかのように、耳を傾けない。その存在を認めるのは、犬か猫か、まだ純真な心を保っている子供くらいなものだ。その者の語ることを、もし聞く機会があったとしたら、あなたは恐れを感じ、疎ましく思うだろう。何故ならその内容は、ほとんどが祝福などではなく、人間の暗い未来、破滅について語っているからだ。そして、その存在はまったく嘘がなく、真実というものを体現している。彼は今は神社にいる。ここまで話せば、その存在の名も分かるだろう。彼はつまり・・・

ホームレスなのである。


  あとがき  

ここに書かれたものは短編小説であり、虚構です。よって、実際の人物・団体・存在・施設とは関係ありません。また、題名の「大学心理学准教授の立場から『信頼のおける話し手』」というのは小説のタイトルであり、わたしは大学の准教授でもなければ、心理学者でもありません。わたしは作家です。

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