ファンクラブとはガラパゴス化である

映画『ソーシャル・ネットワーク」で、マーク・ザッカーバーグはFacebookがクールである理由の第一に上げたのは「排他的である」ことです。排他的であるとはどういう意味でしょうか?

言葉には必ず文脈がある

例えば、ある人が「犬は大嫌い。臭いから」とTwitterに投稿したとしましょうか。あなたはどんな感情を持ちますか?

実際に犬を飼ったことがない人にとって、犬とはかわいいだけの存在であることは間違いありません。私も犬ならばどんな犬種でも目に入れも痛くないのではないかと勘違いしてしまうほどです。だから、この発言に対してネガティブな感情を持つ人は少なくないことでしょう。

この一件だけでアンフォローしてしまう人もいるかもしれませんね。

でも、この人を幼少期から知る人には、ひとつのエピソードが共有されているとしましょう。それは、この人は幼少期に間違えて犬小屋に入り込み一晩過ごしたというものでした。子どもにとって犬は大きな生き物で怖かったでしょうし、一晩もトイレを我慢できるわけもありません。

そんな他人に話すにはちょっと恥ずかしいエピソードの文脈の延長線上に同じ発言があれば、これは自虐のユーモアだということがわかります。ただし、誰もがアクセスできるTwitterでの発言としてはリスクが高い物でした。

ニッチの快感に人は勝てない

厄介なことに、人はこのような仲間にしかわからないニッチなユーモアのツボがたまらなく快感なのです。

うちの実家にはミニチュアピンシャーという犬種がいますが、非常にプライドが高く行動も活発で家で飼うには不向きとしか言いようがありません。それでも、ミニピンのママたちはもう別の犬種は飼えないでしょう。ミニピン特有のツボにメロメロというわけです。

ただの野球ファンではなく、特定の球団、さらには特定の選手のファンとなると密度はどんどん濃くなっていきます。

想像してみてください。ホリエモンこと堀江貴文さん個人へのファンコミュニティ(オンラインサロン)であるHIUに「堀江さんサインしてください」「堀江さん一緒に写真撮ってください」みたいな人ばかりが集まってしまったら・・・想像するだけで雷が怖いですよね。堀江さんはそういうのが嫌いだという文脈が共有できている人だけが集まる「排他的な」空間であるから堀江さんもサロン会員も安心してリアルで顔を合わせることができるわけですよね。

ネット上に本当の話が落ちていない理由

ネット上に大事な情報は落ちていない理由がおわかりいただけたでしょうか。文脈のわからない誰かの目に触れるネット上で、同じテキストを載せたとしても理解されることはなく、それどころか誤解されて逆恨みされるのを賢い人は察しています。

つまり、情報についても、もっとも詳しくてもっとも重大なものが飛び交うもっとも排他的な空間がファンクラブと言うわけです。文脈を理解済みであることを前提として、本音が出せるのがファンクラブです。月額会費なり完全紹介制なりの入り口にハードルがある中に入らない限り、本当の情報に触れることはできないと言えます。

逆に言うと、運営側はそれを意識した情報開示が価値となることを意識しています。

独立した者同士の相互依存が次のステージ

それぞれのファンコミュニティは独立した主権のようなもので、独自の歴史を刻み独自の進化を遂げます。まさにガラパゴス化です。日本での生活が長いことと、アメリカに渡ったあとの生活が有利になるかどうかはまったくの別問題です。理由は共有している文脈が違うからですね。

しかし、時が大航海時代の直前です。

各国が鎖国をしていても発展はありません。それぞれが自立した上での相互依存の世界のはじまりは目前です。それには成熟したコミュニティであるという「文脈」を持っている必要がありますが、組むことにメリットがあれば異文化は交わりさらなる発展をすることになるでしょう。

まさにファンコミュニティ創成期。コンピューターによる革命。インターネットによる革命。そして、AIによる革命の一歩先に、人知れず、ニッチに、コミュニティによる革命が目前に迫っています。


参考記事

ファンクラブの作り方

明日もがんばれる気がします。あなたが決めてください。