sample『ばらの花』評(3)

あんなに近づいたのに遠くなってゆく(くるり『ばらの花』より)


なわとびをしていた
もう、どれほど飛んでいるのだろうか
握った手のひらに汗をかき
ロープが滑って抜け落ちていった
コンクリートの地面に
プラスチックの部分が叩きつけられて
響きのない、乾いた音が鳴った
片方の手から足下に垂れさがる
ロープの曲線を何度も目で往復させながら
今日はこれでおしまい
ロープを手繰りよせて結んだ
もう解けないくらい
きつく結んだ

第3聯である。
《なわとびをしていた》と一行目から、不意を突かれるように、『していた』と書かれる。が、別段、なわとびをしているのだから、そのまま読めば良いではないかと思われるかもしれない。しかし、はいはい、なわとびをしていたんだね、と読んでしまうのは、それこそ意味内容を受容し感想や印象で把握しただけで、読んだとは言えない。では、なわとびとはなんであろうか。それは第1聯の橋からの連関であり越境というイメージであるのは、簡単に理解でき、『している』ではなく『していた』の動詞で切断され、なわとびをしている図が切り取られているのも、《もう、どれほど飛んでいるのだろうか》と接続する為というのも理解でき、第1聯の橋の下での『焚いた火は明るく/配達され続ける魚を燃やして』の『続ける』から、『もう、どれほど飛んでいるのだろうか』と、時間の不確定=未然性(跳躍する姿態は母の中に浮遊する姿とも重なってくる)も導き出されるのも優しい。しかし、それだけでは説明できない(できてない)気がする、その足掛かりを求めて、読み進める。《握った手のひらに汗をかき/ロープが滑って抜け落ちて行った》の『汗をかき』は『溶けかけた宝石』からの遠因が感じられ、握った手には花の蕾を想起させる、『ロープが滑って抜け落ちて行った』のロープはなわとびのロープ=文章(後述で詳解する)と把握するのも容易い。《コンクリートの地面に/プラスチックの部分が叩きつけられて/響きのない、乾いた音が鳴った》ここも焦点を近づけ、カットしシーンを作り出している、というより、視覚性が前面に出ているといえばいいだろうか(この詩全体、眼が強い)、音より眼がふくらんでいる。《片方の手から足下に垂れさがる/ロープの曲線を何度も目で往復させながら》の『片方の手から足下に垂れさがる』のこの文章は不思議である、なぜ、片方の手からと書かれる必要があるのか、ただ手から垂れさがると書けばよいではないかと思う、その疑問の解決の糸口は『ロープの曲線を何度も目で往復させながら』から取り出すことが出来る、先ほどロープ=文章と述べたのを思い出して欲しい、我々(作者も含めた)は目で何度も往復させながら文章を読んでいることも忘れてはならない、となれば、片方の手…も書かれる右手ないし左手のイメージということが自ずと導き出され《今日はこれでおしまい》という言葉も二重の意味があることが、すぐに理解が出来る、《ロープを手繰り寄せて結んだ/もう解けないくらい/きつく結んだ》も書かれることと書くことが『結んだ』で締められている。
となれば、詩全体から見れば、この聯は節目となるのであろう、次聯から着地された後の詩が展開され、接続されていく。
次回は第4聯である。

『ばらの花』 >> permanent URI:http://bungoku.jp/ebbs/20141208_105_7801p

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