sample『ばらの花』評 (1)

暗がりを走る 君が見ているから
でもいない君も僕も (くるり『ばらの花』)より

言葉と子どもが走り抜ける橋の下で
焚いた火は明るく
配達され続ける魚を燃やして
皿の上に描かれた
細密な骨の水路は
若い母の背中にあった
痣のような海の記憶を圧し流して
排泄して
こぼれ落ちた情緒は骨を溶かし
なにもない皿へと
空腹だった子どものまま
きれいな手が伸びる
 


⚫音の響きと『と』でわかたれつつ繋がりながら、読み手であるわれわれのわかつ眼の動きの様がそのままあらわれたというように読み『走り抜ける』。
作者も読み手でありわれわれと同様であるのだから、橋[=読み手(テクストと読み手のあわい)]の『下』に喚起される意味やイメージは目映く眼を眩ませるが、配達され続ける(死んでいるであろう)魚は、読み手の眼下に提示された点で過去であって、読み手に配達=接続されながら燃やされるわれわれの「意味」でしかなく、ゆえに書くことと読まれることの図が明解にあらわれているように感じる。
『皿の上に描かれた』の皿(これより以前の『害虫』という詩では湖に反射する月としてあらわれていた)とはわれわれの眼であると思うが、前述に『橋の下』と書かれ『皿の上』と書かれることで、より縦の線(見下ろすというの)を意識せざるを得ず、加え『描かれた』と置かれることで『配達され続ける魚』との連関がさらにはっきりとしてくる。
さすれば、続く『細密な骨の水路は』も、自ずと理解出来る。『細密な骨[=言葉、ひいては文章]の水路』はわれわれが読んでいる、このテクストの蔓のような文章を、あられもなく指しているのだから。
『若い母の背中にあった/痣のような海の記憶を圧し流して』の若い母の背中にあった痣(焚いた火、魚のイメージが反響しているよう)はわれわれにしか「見えない」背に痣のような海の記憶を圧し流しているのであるが、海の記憶とは若い母からの連関であり川からの線であると思うが、それらは水路[=文章(読み手の視線)]に圧し流しされ、われわれ読み手に情緒=濾過された言葉になった言葉は骨(言葉そのもの)を溶かし、なにもない皿=なにもないテクストへと、空腹(次聯の嘔吐へと繋がる)だった子どものままきれいな手が伸びる(きれいな手が伸びるには水路からの響きが感じられ、ゆえに当然のことながらわれわれが読んでいる文章であろうし、意味とは違う「未然的(これも重要であり、次聯へと繋がり、音から声であり、ばらの蕾が開く・閉じる響きも忘れてはならないだろう)」な手=言葉である。)それは意味やイメージからなる言葉からの「越境」を(成功しているか否かは別にして)志向しているように思える。

今回、第一聯の読みとしてはこのようなものである、次回は第二聯である。

『ばらの花』 >> permanent URI:http://bungoku.jp/ebbs/20141208_105_7801p

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?