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タイのプレアビヒア占拠と撤兵

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タイにとっての「失地」がカンボジアに帰属するという現状は、タイが国連加盟するための代償であったと認識されている。すなわち、連合国側の理論でモノゴトが決まるという新しい現実社会に適合する為の踏み絵でもあった。

しかし、ここでタイにとって予期していないことが起きた。カンボジアによるプレアビヒア寺院の領有権の主張である。

1954年のカンボジアのフランスからの独立後も、タイは当然のようにプレアビヒア寺院を継続的に占拠し管理し続けた。

タイが自国の領土と思っているのだから当然といえば当然ではあるが、地形の関係もある。

現地を訪れると分かるのだが、絶景の景色とはすなわち、絶好の監視ポイントでもあるということでもある。

カンボジア側から見上げると難攻不落の要塞に見えないだろうか?

また当時タイは、中華人民共和国との関係を深めるカンボジアについて、タイを共産主義化する勢力となると恐れていたこともあった。

タイとカンボジアの国境は、単に2国間の国境と言うだけでなく、東西冷戦の最前線となっていたのである。


1962年6月15日に国際司法裁判所が、1904年条約の下でプレアビヒア寺院がカンボジアに帰属するとの判決を言い渡すと、タイは国際連合に加盟する国の義務として、不服ながらも判決に従う旨の宣言を行い、プレアビヒア(タイ名:カオプラヴィハーン)から撤兵した。一方、カンボジア国内では「失地」回復の象徴として強調された。

(出所)หน้าแรกผู้จัดการ Online (Manager Online)


双方が敵対感情を募らせ、カンボジアとタイは国交断絶を繰りかえした。1954年のカンボジア独立以降、最初の国交断絶が1958年11月24日~1959年2月20日(国連の斡旋で3ヶ月で回復)で、2回目は1961年10月23日~1969年9月9日まで約8年間も続いた。実のところ、1970年3月のカンボジアでのクーデターによって旧カンボジア王国が倒されるまでの比較的温和な時期であっても、両国は国交断絶していた期間のほうが長かったのである。プレアビヒアの領有権問題についての国連司法裁判所の判決が出た1962年時点では、両国間に正式な対話のチャネルすらなかった。

カンボジアの隣国ベトナムでは1960年以降、アメリカの本格介入によりベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)が激化していた。カンボジアでは、1970年3月、シアヌーク殿下(実質的な国王だが表向きは国王の座は空位としていた)の中国外遊中に、アメリカ主導(ベトナム戦争の打開を企図しカンボジアに親米政権を望んでいた)によるクーデターが発生。

アメリカの後ろ盾を得たロン・ノル政権によるクメール共和国の建国が宣言され、以降20年に渡りカンボジア国内は内戦状態となった。「冷戦」体制下の激烈な戦場として、カンボジアは極度の災禍に見舞われる。

まずクーデターをきっかっけに起こった内戦では数十万人の農民が犠牲となり、1970年の春以降、わずか一年半の間に200万人が国内難民と化した。

また、米軍の空爆もあって、農業インフラが徹底的に破壊された。1969年に耕作面積249万ヘクタールを有し米23万トンを輸出していたカンボジアは、1974年には耕作面積5万ヘクタールとなり28.2万トンの米を輸入しなければならなくなっていた。

プレアビヒア周辺などのタイ国境付近のジャングル地帯は、1970年以降、カンボジア共産党勢力(ポル・ポト派)の拠点となり、周辺には多くの地雷が撒かれ、タイと領有権問題を議論出来るような状況ではなくなった。

ポル・ポト派治政下の大量の自国民虐殺はよく知られた話であり、ここでの本題ではないので詳細は敢えて割愛するが、知識階級層の虐殺と農村への強制移住、徹底的に文明を否定した人力での農業生産による過酷な労働は、カンボジアを原始共産社会へ引きづり戻した。

さらにカンボジアは1979年以降、1975年に南北統一を果たしたベトナムが介入し、以降10年間に渡りベトナムの支援を受けたヘン・サムリン政権と、反ベトナム派の合同3派による内戦が続いた。ベトナムは、ポル・ポト派のベトナム国内への越境による3000人を超える村落虐殺事件を受け、ポル・ポト派の徹底的な排除を決めていた。ポル・ポト派内部の分裂により、虐殺を恐れたカンボジア人が難民としてベトナム国内に流れ込んでいたという背景もあった。

なお、中ソ対立を背景に中国が支援していたカンボジアへ、ソ連の支援を受けたベトナムが軍事介入したことに対し、中国が「懲罰」を与えようとして越境攻撃したのが中越戦争である。

中越戦争での中国の敗北と、中国国内での経済政策の失敗もあり、中国のカンボジアへの影響力は削がれた。かわりにポル・ポト派に対して影響力を持ったのはタイである。理由は、ベトナムを通じたソ連の影響力がカンボジアに及ぶことを嫌うアメリカをバックにつけたからである。タイ自身もカンボジアが共産主義陣営でもあるベトナムの影響力下に置かれることを嫌っていた。具体的に影響力の行使は、ポル・ポト派がタイ側に越境避難する事に目をつぶり、ベトナム軍からの追撃をかわすことを助けることである。この事実は殆ど知られていないが、ここでも、極力目立たぬよう反ベトナム三派への直接的な支援は避けつつ、アメリカの意に沿って自国にとって最も有利な立ち位置を狙うタイの外交上手が見て取れる。

1989年に米ソ対立を軸とした「冷戦」が事実上終結し、ドイモイ(刷新)を掲げるベトナムがカンボジアから撤退した。1991年のパリ協定締結によってカンボジア内戦が終結すると、国連による暫定統治下での総選挙実施結果を受けて1993年に新政権が成立。それでもポル・ポトは総選挙への参加を見送るなど、独自路線を取り続けた。

(出所)WGBH Educational Foundation

しかし、1998年にポル・ポトが死去し(腹心の裏切りにより暗殺されたとの説もあり)、ポル・ポト派が拠点としていたタイとの国境地帯も平定された。対立の構図の最前線であり、東西冷戦の代理戦争の舞台でもあったカンボジアは、対立軸が解消されるまでの間、常に大国の思惑に左右され、戦火に晒され続けた。力無き者の哀しき運命であったとも言えるだろう。

ポル・ポト派の牙城であったタイとの国境付近に、新生カンボジア王国政府による直接的な統治が及ぶようになると、カンボジアは同寺院の周囲地区に対する領土確定要求を再び掲げるようになった。特に、カンボジアは1962年の国連司法裁判所の判決内容について、同判決は寺院のみならず「プレアビヒア山」全域がカンボジアに帰属すると決定したものであるとの主張をし始めた。

これに対しタイは、同判決の既判力は同寺院の帰属に限定され、同寺院の周囲には及ばないとして、閣議決定によって同寺院の周囲に国境を画定し、そこに柵を設置した。カンボジアの安定を受けて、プレアビヒア領有権問題がぶり返したのである。

次回では、なぜ、1962年に決着していたはずの領有権問題が、今更のようにタイとカンボジア両国にとって大きな問題となるのか、その背景についてクローズアップしたい。

(6)「カンボジアでの反タイ暴動」へ


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