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カンボジアでの反タイ暴動

(前回はこちら。目次相当の導入部はこちら

1.2003年の暴動

2003年1月23日、カンボジアのメディアが、タイの有名女優が出演したテレビ番組で「アンコールワット」をタイに返還すべきと侮辱したとの噂が流されたことに端を発し、フン・セン首相も「アンコールワットを盗もうとする『泥棒スター』だ」と批判する発言をしたことから、カンボジア国民の潜在的な嫌タイ感情に火を着けた。

1月29日には、約3千人が在カンボジアのタイ大使館の前に集まってタイ国旗を焼き、一部がタイ大使館に侵入して放火した。また、タイ企業の活動拠点やタイ系資本のホテルが放火されたり、タイ系企業に勤める従業員の自宅が襲われ略奪されたりするなどの暴動にまで発展した。

(出所)topicstock.pantip.com

この暴動においては、タイのプミポン国王の肖像が踏みつけられている様子が映った写真がメディアで流さたこともあり、タイ側でも抗議が発生。バンコクのカンボジア大使館に500人近いタイ人が集まり、カンボジア国旗を燃やすなどした。(プミポン国王自らが諫め、事態は収束)

(出所)タイ テレビ放送(チャンネル9)

今度は、タイでのカンボジア大使館前での抗議活動が、カンボジア国内では「襲撃」と報じられ、さらに「タイ人の襲撃でカンボジア大使館員が殺された」との虚報も出されたこともあって、更なる混乱の拡大が懸念される事態となった。

タイ側はプノンペンの大使館員を全て一時帰国させることにし、国境は閉鎖、民間人を含めカンボジア国内のタイ人(約700名)を軍用機にて帰国させた。

(出所)News Chaopraya掲載のタイポスト紙面から (2003/1/29の様子)

一連の暴動に対して、タイ政府は、以下の3つを条件に国交正常化を提案した。

1)暴動に関与したカンボジア人に対し、法的な措置をとること。
2)カンボジアの人々に対し、噂による誤解を解くための機会を設けること。
3)カンボジア国内で被害にあったタイ資本の事業に対する補償を行なうこと。

上記条件をカンボジア政府が受諾したことから、2003年4月11日に2国間の国交は完全に回復した。なお、後の調査では、タイの女優がそのような発言をした事実は確認できず、虚報であることが確定。カンボジア側のメディアも「そのような発言を聞いたという3人の女性の話を元に、内容を確認せよと政府に忠告するつもりで書いた」といった主旨の弁明をしている。


プレアビヒア寺院は、1998年から一般解放された。背景として、活動の拠点をタイ国境近くのジャングルに置いていたポル・ポトが死去し、新生カンボジア王国政府による直接統治が及ぶようになったからである。そもそも地形の関係からタイ側からしか容易にはアクセス出来ないという事情もあって、一般人がタイ側から訪れるようになった。

しかし、観光客が多く訪問するようになると、寺院遺跡内で商売をしていたカンボジア人が汚水を垂れ流すようになり、汚水が「タイ側」に流れ込んだとしてクレームを行うとカンボジア側が「無視」するなどして両国関係が悪化。2001年12月17日に同寺院は閉鎖されていた。

2003年の暴動収束後、両国の関係修復の象徴として2003年5月31日に再度一般人に開放され、次に説明する紛争勃発に伴い2008年7月に閉鎖されるまで、観光客が(主にタイ側から)プレアビヒアを訪れることが出来るようになった。


2.2008年からの紛争

カンボジアは2007年になると、プレアビヒアがカンボジアの主権の下にあるという前提で、プレアビヒア寺院の世界文化遺産リストへの登録手続きを進めた。

ユネスコ側は、寺院周辺の領有権が争われている地域であり、実質タイ側からしかアクセスできないことから、両国合同での申請が望ましいとして差し戻したが、その後、タイの外相が世界遺産登録申請に理解を示したこともあり、再度申請手続きが進められることになった。しかし、タイ国内で反対運動が発生。タイの外相は、タイの国会での承認無しにカンボジアによる申請を認めたとして辞任に追い込まれる事態となった。

この動きに対し、カンボジア側も反発。強行姿勢を強めさせる結果となり、カンボジア単独での登録申請に踏み切る結果となった。もともとカンボジア側には、同寺院の周辺地区を寺院の保存管理のための緩衝地帯に指定することによって、世界遺産委員会に対し、1962年判決が「プレアビヒア山」全域をカンボジア領であることを認めていた、と確認させようとする意図があったとされている。

(出所)Border Conflict over World Heritage: Preah Vihear Temple [Yamashita 2011]


世界遺産登録を巡る意図やその後の反発について、タイとカンボジアの双方のメディアが激しく煽り、相互の不信感は深まっていく中、2008年7月8日、タイにとってのカオ・プラ・ウィハーンはプレアビヒア寺院として世界文化遺産リストに登録された。

既に領有権を巡って「譲歩」していたタイ側の不満は爆発した。世界遺産登録決定後、登録に抗議したタイ人3人が国境の検問所を飛び越えて寺院へ行こうとし、カンボジア軍に拘束される事件が発生した。この事件を受けて、カンボジア側では、約40人のタイ軍部隊が越境侵入したと発表し、タイ側は軍による国境侵犯の事実はないと否定する声明を出した。

拘束されたタイ人は3人全員釈放されタイ領内に帰還したが事態は収まらず、それ以降、カンボジアとタイはそれぞれ軍隊を増派し,7月17日には両軍合わせて約1,200名、7月20日には約1,500名、7月25日には約4,000人の兵士が、プレアビヒア寺院遺跡周辺で対峙した。これを境に観光客は近づけなくなった。

結局、その後状況はエスカレートしていき、タイとカンボジアは遺跡周辺地域で交戦、死傷者数十名を出す国境紛争にまで発展した。

(出所)www.telegraph.co.uk (2008/10/16)

2011年7月、国際司法裁判所は、寺院およびその周辺を暫定非武装地帯に設定し、両国部隊の即時撤退を命じる仮保全措置を言い渡した。

9月にタイのインラック首相(当時)がカンボジアを訪問、紛争解決に向けた地ならしを始め、2012年7月には国際司法裁判所の部隊撤退命令が履行され両国の軍部隊は撤退した。結局、これ以上の具体的な状況打開策を見つけることが出来ないまま、カンボジア側が提訴したプレアビヒア寺院周辺の国境未画定地域の帰属をめぐる、2013年の国際司法裁判所の判決を待つことになる。


ここで、なぜ2003年、2008年とおよそ5年毎に紛争が激化するのか、少し考えてみたい。

理由は明白である。カンボジアの国会議員の任期が5年間であり、5年に一度、夏(7月)に総選挙が実施されるからである。選挙の前年から総選挙を見越して政治の季節に入る。ポルポトが死去する1998年までは、この地が現在のカンボジア政府の直接的な支配が及んでいなかったが、2003年以降、領有権問題は、選挙の格好の材料とされたのである。

2008年当時、不幸だったのは、タイ側は2006年のクーデターを経た民政移管後の政権基盤が弱い時期で、政治パフォーマンス上、国民の人気取りの為に対外的に過激な対応を取り必然性のある時期だったということである。

結果として、紛争危機を小さいうちにとどめることが出来ず、2011年には砲撃・銃撃戦で双方の兵士、住民ら30人近くが死亡、100人以上が負傷し、周辺地域の住民10万人以上が避難した。

(出所)プレアヴィヒア寺院遺跡 旅行記 現地個人ツアー行き方

治安上の問題や、観光収入が絶たれた等の背景から、寺院近くに存在してしたカンボジア側の村落も消滅した。(左の写真が2010年4月時点、右の写真が2015年2月時点)


3.2013年の判決

2013年11月11日、国際司法裁判所はプレアビヒアの周辺地域についてカンボジア領と認定する判決を下した。

判決の内容は、筆者も先日通った、寺院西側の断崖の南西方向から北西へと大きく回り込むような形で通じる道路に相当する、三角形状に出っ張っている部分が「寺院周辺」に当たるカンボジア領とするもので、約4.6平方キロメートルにわたる国境未画定地域全体についての帰属についての判断ではなかった。両国がお互いにギリギリ受入可能な妥協点を見出したかのように見える判決内容で、「1962年判決で述べる『周辺地域』とは、寺院がある『断崖』の部分である」というもの。残された地域はについては「62年判決はそこがカンボジア領だともタイ領だとも判断していない」との説明された。

判決が出る1ケ月前に、政府レベルで、判決の結果に係わらず、平和的な対応、両国の関係維持に努めることを確認し合っていたこともあり、判決後、暴動等には発展しなかった。

判決結果が出るタイミングが11月と、カンボジアの選挙(7月)実施後であったことと、タイ側は反政府運動が激化しタイ国内の対応で手一杯であったこと、また、カンボジア側も、7月の総選挙の結果について野党側から大規模な不正があり受入れられないとの抗議活動が展開されていた等々の事情もあった。

その後、2014年5月のタイでのクーデター発生を受けて、軍政との間でも良好な両国関係が維持できるようになった点も、情勢の安定につながった。

結果として、現在は寺院西側の急坂道を使ったカンボジア側からのみの訪問が可能であるが、本来、参道を伝って訪れるべき場所ではある。

振り返ると、1998年以降、プレアビヒアは、5年周期で政治利用をされ、和平の象徴とされたり、紛争の種となって来たわけであるが、タイとカンボジアの両国国民感情の根底には、先に経済発展を遂げた豊かな優越感を持つタイと、一度は原始共産社会と恐怖政治にどん底まで落ちてしまった劣等感を持つカンボジアとのコントラストがある。このあたりの構造的な問題の解消は、カンボジア側の経済発展レベルの底上げや、豊かな自然や持続可能な環境こそが真の豊かさといった価値観の転換によって、もたらされるのかもしれない。

また、世界文化遺産登録という行為自体が政治利用された感も強いが、魅力ある観光資源の維持管理という観点で、タイとカンボジアの両国関係が利害を一致させ、意味のない紛争が再発しないことを望みつつ、全6回に渡る長い個人的メモの結びとしたい。

(了)

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