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【タイの故郷を訪ねて】スコータイ訪問記(4)

静謐な西の丘から下りてスコータイの城壁内に入ってみると、廃墟であるにも関わらず、そこは何だかとても「煌(きら)びやかな世界」に感じられました。

一瞬であっても森の空気を吸ってから街に出てきた感覚で見ると、「人造建築物」という時点で、なんだか「恣意的なもの」を感じてしまう自分に気が付きます。

やはり街中にある寺院跡というは、世俗の権力者がどのように宗教を政治利用したかの痕跡なのかもしれません。

ガイドさんの解説によれば、遺跡の配置や高さや向きには、建立当時の政治的な意図が必ずあるとのこと。

例えば、アユタヤ朝の権威を強調する為に台座が高く作られた仏像などがそれです。他の古い遺跡よりも手前に置かれ、かつ台座を高くして造られているとのことでした。

いつぐらいからスコータイに仏教がもたらされたのかなと思い巡らせながら歩いていると、「スコータイで最も古い寺院はこちらだにゃん」と猫が教えてくれました。

最も古いといっても、タイ族として最初の王朝としてスコータイ王朝が成立したのが1238年とのことで、それまではクメール(アンコール)王朝の勢力下におかれていたそうです。スコータイ王朝は3代目のラムカムヘーン大王の時(13世紀の終わり)に最盛期を迎え、勢力圏をマレー半島まで伸ばした結果、スリランカからマレー半島のナコンシータンマラート経由で上座部仏教が伝わったとのこと。

よって、スコータイの遺跡には、スコータイ様式と呼ばれるスリランカの影響を受けた丸みを帯びた仏塔(チェディ)だけではなく、クメール様式のヒンドゥー建築が混在しています。日本でいうと神社と寺院仏閣が併存しているという感じでしょうか。

クメール式塔堂は「プラサート」と呼ばれますが、本来、ヒンドゥー建築は神々への礼拝が基本にあり、聳え立つ本堂は「リンガ」といってシヴァ神のシンボルとしての「男根」を祀っているそうです。そんなつもりで見たことなかったですが。。。

そして、「プラサート」のベース部分には、ガルバグリハ(子宮としての聖室)があり、その上に塔状のシカラ(それ自体が巨大なリンガ)を立ち上げ、頂部にカラシャ(シヴァ神の住む世界=もともとはヒマラヤのカイラーサ山)を戴くことによって、人間の大地と神々の天界とを結ぶ宇宙軸を表現しているそうです。しかし、仏教の普及したタイにおいては、「プラサート」は後に仏教寺院の仏塔(チェディ)と同じ役割を担うことになります。

境内に角ばった亀のようなものがあったので、ガイドさんに聞くと、これは、この台の上にあった小さなリンガ(男根、倒壊して今は無い)の上から水牛の乳を垂らし、台からこぼれ落ちてきた乳を女性が飲むことで、子供を授かることを祈願したそうです。日本の神社のように、神様に願掛けをする場所だったのですね。

神々への礼拝に対して、迷信に惑わされないための「脱宗教」を説く仏教では、正しい教えによって導かれるべく、徳を積む為の仏塔奉安や、悟りに近づく為の瞑想が重視されます。スコータイ美術では、写真のような女性的な曲線を特徴する仏像が生み出されますが、見ての通りかなり官能的。

これをみると、凡人は瞑想よりも妄想が深まり、なすべき修行が寧ろ迷走してしまいそうな気がしてしまうのは、単に私が凡人だからなだけでしょうか?

ヒンドゥー教の前身はバラモン教ですが、昔、世界史で習った通り、バラモン教は、人を出自によって四つの階層に分け、最上層のバラモン(僧侶階級)だけが 神と人の間をとりもつことができるとした、神への生贄を中心とする祭儀宗教でした。

仏教は、カースト制度や供犠を否定して「無神論の宗教」として前6世紀に成立した宗教ですので、仏教寺院は基本的に僧が修行をし、人々に教えを説く場のはずです。ただ、人が信仰するという形をとる宗教としての「仏教」は、世俗の権力者に保護されなければ伝播せず、政治利用されなければ普及し得なかったという宿命を負っています。

一方で、バラモン教はインドでは地場の民間信仰を取り入れながら理論武装して、紀元前後頃にヒンドゥー教として再生します。あくまでも『ヴェーダ』以来の神々を奉ずる汎神論的な民間宗教としてですが、言い方は換えれば、ヒンデゥー教は宗教というよりも、階層を大前提とするインド的な生き方そのものなんですよね。そして今や仏教発祥の地であるインドにおいて、仏教徒は圧倒的な少数派になっています。

確か千年単位での仏教の運命論のようなものをどこかで読んだ記憶があるのですが、どこでだったのか思い出せません。ただ、仏陀は、各地を歩きながらも、いずれ本来の仏教(原始仏教)が滅んでいく宿命にあることを分かっていたといった話だったと記憶しています。そして、またいつの日にか、一度滅んだ仏教が、「宗教」としてではなく、人々が自ら迷信を脱し、より良く生きるための「科学」として復活していくことも示していたように思います。

(5)に続く