自分は普通の人間だと思ったこと

私は日本で育った日本人だけど、自閉症スペクトラム障害(ADHDでもある)をもつ人間の常として、自分は普通じゃないと思いながら育ってきた。
どこに行ってもあんまりなじめなくて、すぐ文句を言いたくなる。「普通の人って本当にしょうもない」「本当は物事はこうあるべきじゃないのに」と。
「普通の人」の声はうるさい。なんであんなに大きな声で笑うんだろう。
グミとかガムとかチョコレートとか、気持ち悪い味と感触の物ばかり食べるし、変なにおいの化粧品を好む。
彼らのコミュニケーションは難解だ。私も真似をして婉曲に何かを言おうとするけど、加減がよくわからなくて、変な空気になってしまう。パーティーでは彼らの声は大きすぎて、うまく聞き取れない。冗談がわからず、笑いの輪に入れないし、他愛ないはずの世間話もうまくできない。
大人になってからは帰国子女でしょ、日本人っぽくないねとよく言われる。本当はそうじゃないのに。自閉症の人は英語のほうが生きやすいという言説があるけれど、あまり信じられない。自分よりずっと英語が下手な人たちがどんどん留学生と打ち解けていくのを尻目に、私はずっとアウェイのままだった。

ところで。
しばらく前から私のパートナーは海外に住んでいる。日本生まれ、日本育ちで、発達障害を持たない「普通の人」の彼は、初めての海外移住で普通にカルチャーショックに直面したようだった。海外に住まないといけなくなった人が序盤でよく言う普通の愚痴をぽつりぽつりと聞くこともあった。
この国のルールはよくわからない、やっぱり日本が一番だよ。この国ではみんな所かまわず喋るからうるさい。食べ物がまずい、においがきつい。
英語難しくてうまく言えない。パーティーこわい、同僚の会話が聞き取れない。聞き取れても冗談なのかわからないから、どう反応していいのかわからない。

どっかで聞いた話だな、と私は思った。

「ハイパーワールド:共感しあう自閉症アバターたち」という本に、ニューロトライブ(ニューロ=神経の)(トライブ=部族)という言葉が出てくる。自閉症の人は定型発達とは異なる神経回路をもつ一つの部族であるという概念で、アメリカのサイバースペース(SNS)にいる自閉症当事者の人たちの言葉だそうだ。
この言葉を見たとき、これまでの違和感の正体にうまく説明がついた気がした。
私は、定型発達の人たちとは違う部族の人間なんだと考えることは、自分が彼らと同じ日本人という集団の一員だ、と思うよりはるかに自然に感じられたし、少なくとも自分の特徴を単なる欠陥と考えるよりは精神衛生に良い。しかし、ずっと「普通の人」に対して寛容になれなかったこの気持ちは、異文化に飛び込んだ時の「普通の人」たちと全く同じ、平凡なカルチャーショックだったらしい。

研究者は、私たちのことを「質的に異なる」とか「心が盲目」とかいうけれど、私たちは意外と普通の人間なのかもしれない。もしかしたら自分で思っているよりも、ずっと。自分とは違う部族の人たちにあまり攻撃的になりすぎないようにして、終わらない留学生活を楽しもうと思う。


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