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なぜクリスを嫌ってしまうのか?ー『ミス・サイゴン』とアメリカン・ドリームの虚構ー

はじめに

2022年、『ミス・サイゴン』が遂に2020年中止になったリベンジを果たした!そして、30周年という節目に。おめでたい。
今まで2014年ロンドン版のDVDしか見たことのなかった私もやっと、初めて生で、そして初めて日本版で、見ることができました。

DVDで『ミス・サイゴン』を見てから、ずっとこの作品についてはモヤモヤがあった。これは私だけでなく、幾度もあらゆる人からこの作品が受けてきた批判だ。

クリス、まじでクソ男すぎん???
はいはい、またWhite Savior(白人救世主)のお話ですか???
ベトナム人女性が白人男性に振り回されて最終的に死ぬ話ですか。ああはい。

そして疑問が湧いてきた。
この話は、結局、何が言いたいの????????????
そして私は何故、こんなにもクリスに嫌悪感を抱いてしまうのだろう????

2022年『ミス・サイゴン』には、私の推し役者(小野田龍之介さん)が出演しており、かつ彼はまさに問題の人物クリスを演じていた。
私はもちろん、とても楽しみにしていた。しかし、作品をどう読めばいいのかわからない。正直、自分の倫理観的にはどうしてもモヤる描写がある。でも推しは好き。推しのクリスが好き。そして『ミス・サイゴン』という作品には抗えない魅力がある。でも、問題も孕んでるという意識はある。そしてクリスというキャラクターにはどうしてもモヤモヤしてしまう。でもなんでかはちゃんと説明できない。
胸が引き裂かれる思いでした。

ということで、2022年、私は『ミス・サイゴン』を見に帝国劇場へ3回足を運んだ。(本当は4回行くつもりがコロナで…以下略)
どう読めばいいんだ、この作品??なんでクリスにモヤってしまうんだ???と首を何度も捻りながら通い、3回目にしてやっと腑に落ちる解釈を捻出した。

『ミス・サイゴン』は構造上、問題を孕んだ作品であることは意識すべきだと思うし、問題はあると今でも思っている。その話については今回は深く言及しない。ここではただ、迷いに迷った末に私が辿り着いた作品の考察をここにメモとして記す。

さて…

『ミス・サイゴン』がベトナム戦争下を生きた人々を取り巻く悲劇であり、戦争によって個人の人生が狂っていく様を描いたドラマなのは一目瞭然である。このような、戦争という大きな社会の畝りの中での個々人の生活、というミクロな視点から描いていると同時に、この作品を五歩くらい引いて俯瞰してみるとより壮大なテーマをも内包しており、マクロな視点でのベトナム戦争の考察・批判として読めるのではないか。

『ミス・サイゴン』のストーリーは戦争の縮図?

まず、前提として、『ミス・サイゴン』のキャラクターはそれぞれ国を象徴していると読んで取れる。

キム=南ベトナム
クリス=アメリカ

クリスはキムを守ると言い張り、実際に守ろうと行動に移す。
しかし、その計画はうまく行かず、キムは最終的に命を落とす。

アメリカは南ベトナムを共産主義の脅威から「守る」と言い張り、実際に戦争に介入する。
しかし、その計画はうまく行かず、結局南ベトナムは戦争に負け、北に併合される。

明らかにこの2つの事象は構造上似ていると言えるのではないか。
よって、クリスはアメリカン・パターナリズムの象徴であると読める。

「アメリカン・ドリーム」という虚構

クリス=アメリカン・パターナリズムという構図を明らかにしたが、今の説明だけでは納得いかないだろう。
では、「アメリカン・ドリーム」という『ミス・サイゴン』には欠かせないテーマの視点からも論じてみよう。

「アメリカン・ドリーム」という曲がこの作品の代表曲として挙げられることからも、アメリカン・ドリームという概念が作品を通じて根底にある最も重要な概念と言えるだろう。

「アメリカン・ドリーム」とは、そもそも何か。
アメリカン・ドリームは、かつて信じられていた、アメリカでは出身やバックグラウンド、生まれた階級など関係なく出世し裕福になれるという考えである。つまりは、貧乏な家庭に生まれたとしても、アメリカであれば努力次第でお金持ちになれる。貴族制や階級制度が根強くあるイギリスなど欧州諸国と比べていわれたことだ。

しかし、アメリカン・ドリームは虚構である。

これがもうアメリカ人の、及び世界中の人々の主なコンセンサスだ。第一次世界大戦を初めに、アメリカン・ドリームは朽ち果て、人々はそのドリームに失望をした。
ベトナム戦争もその一例だ。ベトナム戦争は「自由のために戦う正義のヒーロー」としてのアメリカ像をぶち壊し、アメリカ人さえも自国への信頼を失った。「誰もが成功を掴める自由の国・アメリカ」は存在せず、現実ではアメリカに移民が渡ったとしても下級階層の労働者として生きて行くほかないことが殆どである。

『ミス・サイゴン』では、アメリカン・ドリームが様々な形として表出するが、それ全ては虚構である。

エンジニアの「アメリカン・ドリーム」

一つ目は当たり前であるが、劇中曲「アメリカン・ドリーム」だ。エンジニアがアメリカに行って裕福な暮らしをする夢を物語った曲であり華やかなナンバーであるが、その最中も我々観客は彼がアメリカに渡るチャンスがないということをわかっており、そのすぐ後に彼の夢は破れる。
また、これは3回目に見て感じたことなのだが、この曲のさらに虚しい点は、たとえエンジニアがアメリカに渡ったとしてもこのような裕福な暮らしは絶対にできないだろうということであり、我々観客はそれを見ながらわかっているということである。

「我が心の夢」=娼婦たちの「アメリカン・ドリーム」

二つ目は、ドリームランドで働く娼婦たちの夢である。
彼女らはGIに連れられてアメリカに行くことを、それによってベトナムと、自らの体を売って生きるという生活とから脱出し、より幸せな暮らしをすることを夢見ている。最初から、エンジニアは「ミス・サイゴンになることはここから出ていく切符だ」などと言って女性たちを鼓舞している。ここで、『ミス・サイゴン』というタイトルにも、根底には「アメリカン・ドリーム」というテーマがあることがわかる。
ミス・サイゴンになる=ベトナムから逃げる切符を得る、アメリカに行ける。クリスに見初められたキムが「真のミス・サイゴン」と呼ばれるのはそういうことだろう。

ジジをはじめとするドリームランドの女性たちが歌う「我が心の夢」(原題:The Movie in My Mind)でもまたアメリカン・ドリームへの不信感が見える。
彼女らが夢見るのは、GIに抱かれてアメリカへ連れていかれるというアメリカへの憧れとアメリカに行って幸せになるというアメリカン・ドリームであるが、最終的には「映画は夢」と言う。つまり、その夢はただの虚構ということだ。彼女らはそれを夢見ながらもその虚構には内心では気付いているというのが虚しい。

クリスという名の「アメリカン・ドリーム」

三つ目は「クリス」というキャラクターそれ自体だ。
彼はベトナム戦争で戦ったGIとして、自国への信頼は失っているようだが、
キムにとってクリスこそが「アメリカン・ドリーム」だ。彼とアメリカに行くことで自分の今の生活から抜け出せると思っている。

「俺はアメリカ人だ、守れたはず」(うろ覚え)というような歌詞がある。これからこそ、自由を守る正義のヒーローアメリカとしての自覚が見える。
クリスは正義のヒーローであるアメリカ人としてのプライドを持っていたが、ベトナム戦争という不当で無意味な戦争によってそのようなプライドがズタズタにされた。ベトナム戦争によってアメリカ(とその延長線上で自分)への幻滅を感じていた。キムを守ろうとしたのは、そのアメリカ人としてのプライドとアイデンティティを取り戻したかったからなのではないか。キムを守ることによって贖罪ができる、「正義の味方」としての自分を取り戻せるという自己満で動いてるだけではないのだろうか。

ここでもまた、クリスはアメリカのパターナリズムの象徴であると読める。
ベトナム戦争はアメリカが南ベトナムを「守る」という名目で戦争に介入したという、アメリカのパターナリズムの象徴的な一例として有名である。
クリスがキムを「守ろう」としたのも、またアメリカ人(白人)男性という権力のある立場の者がキムというベトナム人女性である弱い存在をその人のためだと主張し「守る」、パターナリズムなのである。

しかし、アメリカはベトナム戦争介入に失敗し、南ベトナムは崩壊する。
同様に、クリスはキムを守ることはできず、キムは最終的に命を落とす。

ジョンという存在

また、これは日本版キャストではわからないことであるが、ジョンというキャラクターは黒人である。彼は黒人だからこそ、クリスとは違ってアメリカへのアメリカンドリーム的な幻想を抱いていなかったのではないか。 だから、クリスほどベトナム戦争によるアメリカへの幻滅はなかった。

黒人だとアメリカがいかに差別的で「自由の国」や「正義のヒーロー」などというイメージから程遠いかを生まれた時から身をもって思い知ってるだろうが、白人男性という特権階級としてぬくぬくと生きてきたクリスにとってはベトナム戦争は大きなショックにだったのだろう。そのショックの反動として、どうにかしてアメリカン・ドリームの幻想/理想に縋ろうと思ってキムを守ろうという行動に出たのではいないか。

クリスの判決

「クリスはクソ男だ」「クリス嫌い!」
などなど、クリスというキャラクターは散々な言われようで、割と人気のないキャラクターである。私も彼に対してはどうしてもモヤモヤを感じてしまう。

で、判決はいかに…?
クリスはクソ男なのか?それとも戦争の犠牲者である可哀想な男なのか?

辿り着いた判決は… どちらでもある、ということだ。

クリスはアメリカのパターナリズムの象徴として取るのであれば、それは少なからずともある程度の批判を込めて描かれた人物だろう。だから、元々彼は嫌うべきキャラクターとして作られたのではないかという結論に至った。

クリスはクソ男である。何故かというと、自分の自己満足のために、無実な、17歳で家族一人もいない孤独で拠り所のない少女の人生に介入し、夢を見させてしまったから。その挙句、計画が失敗した際には責任を放棄し、子供にも責任を持とうとせず、最終的に少女に命を絶たせてしまったから。

だが、クリスは戦争の犠牲者でもある。そのような行動は結局戦争によって引き起こされたものであり、クリスもまた可哀想な被害者の一人。

この2つは共に両立する。相互排他的ではない。

また、白人男性であるクリスは物語の中で「強者」であることを忘れてはいけない。ベトナム人女性であり孤児のキムが圧倒的弱者である。これを含めて考えると、やはり彼も犠牲者であり可哀想でありながらも、彼の罪は決して拭うことはできないと思う。

番外編:日本版とロンドン版の印象の違い

日本版を見て思ったこととしては、「クリスへの嫌悪感がロンドン版を見た時よりも圧倒的に薄いな」ということだ。
もちろん、推し役者がクリスを演じていたという贔屓目もあるのかもしれないが、これは推しのクリスに限らず他の日本版クリスの映像等々を見ても思ったことだった。

クリスへ感じる嫌悪感=アメリカ人、白人のパターナリズム、White Savior感への嫌悪感
だからこそ、本当にクリスが白人だと尚更嫌悪感が増すのかと思った。

日本人が演じると、キムとクリスの人種の違いを感じなくなり、そのような嫌悪感が薄れる。それが良いことなのか、悪いことなのかは分からない。

あと、これは完全に個人の感想であり余談なのだが、白人がやってると、「本当にこの人、東洋人見下してんじゃないのかな…」と感じてモヤってしまう節があるので、それかもしれないですね。白人観客はどういう気持ちで『ミス・サイゴン』を見るのかな… ともたまに思います。

まとめ

『ミス・サイゴン』はアメリカのパターナリズムと、「アメリカン・ドリーム」という虚構への批判を込めた作品であり、ベトナム戦争以後のアメリカン・ドリームへの失望を根底に描いた作品なのではないか。

これは私の一解釈であり、様々な解釈があると思う。また、これが「作者の意図だった」と言っている訳ではない。観客の解釈は、作者の意図とは無関係に存在するものであり、あくまでもこれは私が一観客として読み取ったものである。

実際、この作品を作ったのはフランス人・イギリス人の男性3人なので、本当に何を考えながら作ったんだ???しかもベトナム戦争終戦後わりと間もない時にさあ…狂ってるの???と本当に頭を抱えてしまうことがある。作者の意図は永遠に分かりません。本当に分かりません。知りたくもないかもしれん。(ため息)

また、最初に言ったが、これは『ミス・サイゴン』を完全にマクロの視点から考察したものであり、この物語の細かい、繊細な部分は無視している。『ミス・サイゴン』は個々人の生き様が色濃く描かれている作品であり、そのようなミクロの視点も勿論大事である。この解釈をすることによってその要素は決して疎かになる訳ではない。

そして、こういう結論に今回は至ったが、もしかしたらまた見たら別の視点が浮かび上がってくるかもしれない。こうやって考えを巡らしながら観劇するのも、めちゃくちゃ楽しいですね!

最後に一言ですが、小野田龍之介さんのクリスは本当に繊細で、強いのに脆くて、可哀想なのにクソで、かっこいいのにダメ男で、正義のヒーローで罪深くて、どこからどこまでも最高です。そしてとても歌が上手いです。再演された際にはまた続投していただきたく… そして見たことのない人はぜひ小野田さんのクリスを見てみてください。この考察の全ては彼のクリスを見てこそ生まれたので!!

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