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中西伊之助物語 「伊之助と母」①     中西伊之助研究会幹事 水谷 修

はじめに

 中西伊之助は1887年2月8日、京都府久世郡槇島村(現・宇治市槇島町)に生まれた。
 我が故郷・宇治が生んだ巨人ー中西伊之助は、民族差別・部落差別・女性差別や刑事弾圧に怒り、抑圧される労働者や農漁民に心を寄せる、戦闘性にあふれる運動の指導者であり、気骨の人だった。社会運動家であったうえに、行動する作家でもあった。1958年9月1日に71年の生涯を閉じるまで、大衆とともにたたかい続けた。
 50回忌を記念し中西伊之助の代表作である『農夫喜兵衛の死』を復刻、刊行した。同書は伊之助の自伝的小説であり、生まれ育った、槇島・五ケ庄が舞台となっている。
 伊之助の生い立ち、とりわけ母親との関係について、書いていく。

伊之助の故郷と生年

 伊之助について、故郷でも知る人は少なくなった。しかも、これまで、生誕の地や生年が間違って伝わっていた。
 たとえば、『日本プロレタリア文学集・6 中西伊之助集』の解説でも「宇治村五ケ庄に生まれた」と紹介されている。
 2005年、ご遺族の協力で、古い戸籍を調べ、生誕地が「久世郡槇島村四五番戸」であることが判明した。中西伊之助研究会の発見だった。同年に開催した中西伊之助研究会、結成の会で、地元槇島の辻昌美さんや故・小西恵三さんからも「槇島出身だ」とご指摘いただいていた。
 明治のはじめ、戸籍を作製した時に、字ごとに端から●●番戸と付けた。したがって、伊之助の家は槇島の北端から45番目の家だったわけである。当時の村役場、今の槇島集会所の前、耕石庵の隣が伊之助の生家だった。
 生年についても、多くの文献や人名事典に一八九三年と間違った記載が多かった。本人が6歳ほどサバをよんでいたためだろう。
 生年は戸籍や国会の記録によれば、1887年2月8日である。

槇島に誕生、少年期を過ごす。


 槇島に育った伊之助の暮らしは自伝的小説『農夫喜兵衛の死』でよくわかる。農家の苦しい生活ぶりが克明に書かれ、明治時代の寄生的大地主の収奪の様子を告発している。地主に借金し、借金が元で農地・土地を奪われ没落していく。同小説に登場する大地主「細川はん」は実在の「細川長右衛門」と考えられる。
 同小説には宇治川の舟唄も紹介されている。

宇治はよいとこ
  茶のよいところ
  娘やりたや、婿ほしや……

また、茶摘唄を「眠たそうな茶摘唄」と紹介している。

お茶を摘むなら
  腰からお摘み
  腰にゃほどいよい味がある。……
  濃茶、薄茶と、
  さまざまあれど、
  みんな色よい殿御ぶり。……

  
 当時の宇治の郷土の文化資料でもある。

「広芝の辻」に暮らし・働いた少年期

 伊之助は、高等小学校2年で学校を「卒業」した。そして13歳で、当時、五ケ庄にできたばかりの陸軍火薬製造所で職工として働くことになる。
 伊之助は、火薬製造所での苦しい労働の様子も『農夫喜兵衛の死』に詳しく書いている。
 この当時の尋常小学校(義務教育)の修業年数は4年間であり、その後に高等小学校の四年間の課程があった。1900年に小学校令が改正され、高等小学校の課程は「二年または四年」とされた。二年か四年か選択制だった。伊之助は四年まで行きたかったが、二年で「卒業」して家計を支えるために働きに出ることになったのであろう。
 中西家は「小作七分、自作三分」だったと本人が述懐している。おそらく当時では貧農というのでなく「中農」といえたのだろう。その中西家が「土地を取られ」て没落していった。詳しくはわからないが、その過程で、槇島から五ケ庄(広芝)に引っ越した。が、いつ移ったのかわかっていない。したがって、伊之助が卒業した学校が、槇島小学校なのか、宇治小学校なのかも判明していない。
 広芝の家は五ヶ庄小字芝ノ東43番地で、少年時代、伊之助がすごした家屋がいまも残っている。
 現在は仕出し屋さん「魚関」になっている。そこは「広芝の辻」と言われ、かつて街道の分岐点だった。当主の関誠一氏によれば、この土地等も「細川はん」のものだった。
  (つづく)

魚関さんが書いてくださった改築前の間取り図


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