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プロの卵

駅前の皮膚科を訪ねるのは、今日で3度目になる。ベテラン女医による丁寧な診察が人気を呼び、この小さな街の病院はいつだって混雑している。

皮膚の病気というのは、その症状から端的に原因を導き出すのが難しいらしい。私の鼻下に突如出現した赤いプツプツも、すぐ治ることもあれば、とある病気の可能性も無視できないという。症状を見ながら、いくつかの治療法を試していきましょうというのが、彼女の方針だった。

一度目はステロイド系の薬を試した。症状が落ち着いたところで、非ステロイドの薬に切り替えて今に至る。状況は一進一退で、調子のいいときもあれば、赤みが出るときもある。薬も残り僅かになったところで赤みが増し、3度目の診察を受けに出向いたというわけだ。

古いビルの階段を上がって2階に行くと、ドアに「診療中」の札が下がっていた。1時間待ちが普通なのだが、今日は終了間際の時間帯を狙って行ったため、待合室の人影はまばらだった。いつも通り、病院のスタッフはみな愛想よく、テキパキと仕事をしている。15分もしないうちに名前が呼ばれて、診察室に入った。

診察室のカーテンを開けると、そこには見慣れない顔の女性が座っていた。アシスタントというわけではなく、女医さんらしい。若い。30くらいか、あるいはそれより下かもしれない。

(…あれ?いつものベテランの女医さんは…)

そう思った矢先、カーテン越しに耳慣れた声がして合点がいった。今日はベテラン先生と新人先生、2人体制で診察しているようである。

「前回と同じ件ですね。あぁ、けっこう赤みが出てますね」目鼻立ちのはっきりした新人先生が、私の顔をまじまじと覗き込んでくる。

「最近、何か深刻なストレスを抱えたりされませんでしたか?」

記録用に口元の写真を撮ると言うので、口角を上げたところに、唐突にそんなこと聞いてくるものだから、含み笑いみたいな変な顔をしてしまった。この厄介なプツプツは、ストレスが原因で悪化する場合があるのだと、新人先生は言いたいらしい。

「ストレス…少なからずありますねぇ」そう正直に答えると、先生は「わかります、わかります」と大げさに共感してくれた。ここが飲み屋のカウンターだったら、そのまま意気投合したやもしれない。

初期の頃の写真と比べると、症状はやや落ち着いているように見える。悪化しているわけではないし、もうしばらく同じ薬で様子を見ましょうかと、診察はそういう流れで進んでいった。

いつもの私なら、そうですか、と素直に受け入れてしまうところなのだが、今日ばかりはそういうわけにもいかない。

確かに最近、赤みの出る範囲は狭まったのが、その場所がよろしくない。ちょうど鼻の下から始まって、上唇の輪郭に沿うようにプツプツが出る。さながら、男性の口ひげみたいに。

昼間は化粧でなんとかしのげるが、化粧を落とすと、赤ひげが現れる。毎夜のごとく、ひげガールの姿を夫に見られては、色気も何もない。とにかく一刻も早く、このひげをどうにかしたいのである。

それともうひとつ、新人先生の表情に少しひっかかるところがあった。彼女はどこか迷っている。少なくとも私にはそう見える。このまま様子を見るということは、つまりベテラン先生が前回処方してくれた薬を使い続けるということだ。そういう判断ももちろんありだろうし、1番リスクが少ないように思える。きっと私が彼女の立場でもそうするだろう。

(でも、本当にそれでいいのかな…)

心の中でそうつぶやいたとき、私は新人先生に向かって問いかけたというより、むしろ自分自身に、おそらくは過去の自分に問いかけていた。

似たような状況を、これまでに何度も経験した気がする。

上司の案件を引き継ぐ。悩む。迷う。決断を迫られる。クライアントからは、“プロなんだから”と厳しい目を向けられる。かつてウェブディレクターして企業に務めていた頃、私は常にリスクを嫌い、失敗を恐れた。提案したのは決まって、無難な選択肢ばかりだった。

(彼女は、あの頃の私なのだろうか。)

そう思うと胸がキュッとした。

(もしも、この症状を改善させる彼女なりの策があるのなら、聞いてみたい。)

私は、自分の症状をもう少し詳しく説明することにした。今の症状だけでなく、薬を変える前と後のこと。あごの赤みは消えたが、鼻下のプツプツがしぶとく残り続けていること。

「うーん、うーん」新人先生は、私の話を一通り聞き終わると、眉間にシワを寄せて何度か唸った。そして、診療スペースを隔てる黄色いカーテンを見上げて、こう言った。

「先生!相談があります!」

「なにー?わたしー?」

声と同時に、カーテンの隙間から見慣れた顔がひょっこり顔を出した。ベテラン先生だ。そのにっこり笑った顔を見て、私はただただ唖然としていた。

(その手があったか…!!)

誰だって、いつだって、迷ったら別の誰かに相談すればいい。どんな人にも、迷いはある。それは恥ずかしいことじゃない。迷惑なことでもない。ひとりで抱え込む必要なんてないのだ。

ベララン先生は、すぐさまカルテと私の鼻下を見比べて、「”酒さ”かもしれないわね」と診断した。そういえば、初回の診断のときにも、その可能性についてベテラン先生から説明を受けた。塗り薬を試しても改善しない場合は、“酒さ”かもしれないと。

「抗生物質とビタミン剤を2週間試してみよう」そう言い残して、ベテラン先生は再びカーテンの向こうに消えていった。

なんでも知っていて、あらゆる可能性を考慮し、対策を考案できるベテラン先生は、間違いなく皮膚科のプロだ。

では、どんな人がプロになれるのか。それはあの頃の私ではなく、間違いなく目の前の彼女のような人だと思う。自分の中にある迷いを素直に認め、質問し、知識を深める人。こういう人に私はなりたい…そう思ってなんだか嬉しくなった。

(新人先生。ひょっとしたら、あなたはとんでもない特効薬を処方してくれたかもしれません。)

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