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なぜ12拍子なのか?そこから考える

例えばチャイコフスキーop64の第2楽章はなぜ12/8で書かれているのだろうか?6/8や3/8でない理由は「ひとつ」の捉え方の問題なのだ。

この曲が12拍子である理由はアウフタクトを呼び起こす運動を小節自体に委ねているからだ。アウフタクトを呼び起こすのは付点二分音符や付点四分音符ではない。つまり、小節の中に補助線を引いて分割するような行為を避けたいからだ。この小節を四つや二つでカウントするのは楽譜の目的に従っていないからだ。もし、そういうカウントで演奏したらホルンが歌い出すまでの道のりは長く遠いだろう。別な言い方をすれば、そのカウントの仕方では楽譜の示すテンポは見えてこないだろう。およそ、よくあるような壮大なバラードになってしまうのは12/8拍子という楽譜が見えていないからだ。

Andante とかallegroだとか、そういう表記と共に楽譜の拍子設定もテンポ感のヒントになっている。それはバロックや初期の古典の作品だけではない。楽譜はいろいろな手段で適切なテンポ感を伝えている。だが、6拍子や12拍子という把握ができないとその楽譜の役割は伝わらない。

拍子は小節の中をどう「分割」するのかを示すものである。小節がどのように運動し、その運動の中でどのように分割していくかの問題なのだ。分割された結果から足し算をして組み合わせる読み方をしてもテンポ感はわからないのだ。4/4であるはずのBWV1068のairが、4/8の2回転になってしまっているのもこの間違えた発想による産物だ。

楽譜を鳴らした結果を記憶として覚えてしまった場合も同じだ。
その結果は楽譜とはもう無縁の世界観でしかない。その音響をどうするのかという発想とこの楽譜をどう演奏するのかという発想はまるで違うのだ。

記憶からスタートすると楽譜の設定が見えないまま、楽譜をなぞってしまう。
また、8分音符を誠実に摘み上げていくこともまた良くない。それならば、6/8や3/8でも同じなのだ。誠実なのではない。真剣に考えてはいないだけだ。そういう「音並べ」ほど惨めなものはないし、つまらない演奏はないだろう。

大事なのは、
「なぜ12/8拍子なのか?」
なのだ。

好き嫌いを越えてそこに拘る必要がある。記憶を乗り越えて、楽譜の主張を読み取ろうとしなければ、相手の考えはわからないままで終わる。

作者の意志?
いや、そういう発想に留まっていてはならない。そういう発想にあるからどうでもいい外部情報に振り回されてしまう。なによりも、それが楽譜の設定であることは明らかなことではないか。

楽譜に書かれているのは意味のある筋道であって、それ以上の問題は受け手の問題だ。それ以上の問題に手を出す演奏はもうその作品とは無縁でしかない。楽譜の可能性を広げるとはそういう改変、改悪ではないのだ。

楽譜に書かれているのは動かし難い「論理」そのもの。聞いた記憶からではなく、楽譜に書いてあることを読み解くところからしか「論理」を知ることはできないだろう。

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