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「解釈」よりも大事なのは可能性を探ること

ベートーヴェンop92の第1楽章主部はvivaceで設定されている。だが、そのvivace の呼吸の開始を楽譜上の主部からと取るのかどうかは悩まされる。

そもそもvivace を単純な快活では、元気な雰囲気と捉えるのか、運動的な意味合いでの小節の使い方の約束と捉えるのかが問題だ。

この問題についての自分の見解は以前も書いた通りだ(2023年12月12日記事)。つまり、vivace は小節の使い方についての共通認識の約束なのだ。二つの小節をアップとダウンの呼吸の組み合わせで捉えるのだ。例えばHob1:101の第4楽章vivaceはアップの呼吸から始まる。3小節目がアップの呼吸になるのと楽譜上の運動性が一致しているのが分かる。

だがベートーヴェンop92の場合は単純ではない。一見vivace の開始を楽譜上の主部開始、つまり6/8に転換したところからvivaceに切り替えるのが順当に思える。だが、長い序奏との関係から考えるとそうはいかないのだ。

この2/2poco sostenuto  は2分音符の呼吸出できているのは明白だろう。だとするとその「二つ」で執る呼吸はダウンとアップの関係になっている。6/8に切り替わった最初の小節をアップの呼吸で読んでしまうとこの序奏の運動と結びつかなくなる。ここに問題があるのだ。というより作者が与えてくれるヒントとも言える。

つまり、poco sostenuto の呼吸のままvivace へ切り替える。別な言い方をすれば、vivace の開始をそのアウフタクトからと捉える。それが楽譜設定の意味なのだ。そう考える。

この呼吸で考えると、楽譜上のvivace 5小節めから始まる第1主題はダウンの呼吸になる。

主題自体の骨格はvivaceの4小節めから、二つの小節をアップダウンのセットを分母とする音楽となっている。その分母による6拍子と5拍子のリレーによって、この主題がtutti で奏される直前のフェルマータに至るのだが、その呼吸はアップになる。この呼吸に慣れると楽譜はとても理に適ったものであることが分かる。例えば、提示部反復の直前にある二つの全休符も納得できる。それがなぜフェルマータではないのか、つまり数理的なお約束であることが分かるのだ。

このような事例は、楽譜情報をどう読み解くのかと言う面白さを感じる。

これはよく言われる「解釈」とは異なる問題だ。

クラシックの音楽愛好者はよく「解釈」という言葉を好んで用いる。だが、その「解釈」という言葉の用いられ方は、作品のオリジナルの「読み替え」のような意味で使われているように思える。そういう立場はとても作品に対して横暴な姿勢に思える。聞き手が作品をどう捉えるのかこそは「感性」の問題であって、それは「内心の自由」の範疇にある。だが、そういう横暴な「解釈」なるものが罷り通るとしたらそれは誤った姿勢だろう。

クラシック音楽の楽しみというのはそういう「解釈」の問題ではない。むしろ、書かれている楽譜そのものをどう捉えるのかにある。江戸時代の民間人の趣味のひとつに「算額」というものがある。趣味の人が数学の証明問題に取り組むという、とても興味深い楽しみだ。クラシック音楽の楽しみはそれに似ている。つまり、作品という動かない「論理」があって、それを「どう読み解くのか」である。「解釈」なるものが許されるとしたら、この範囲の問題ではないだろうか。だがその「範囲」というのは実は広い。作品が「論理」体であるからこそ、その楽譜の読み方自体には様々な可能性がある。

それは演奏比較の立場で楽しむ人たちの「好き嫌い」の問題や「我田引水」な「解釈」とは違う。外部情報からではなく、楽譜からその組み合わせをどう読み解くのかは、作品に取り組む誰もが同じ土俵てその作品の前に一人自ら立つ姿勢だろう。それこそが望ましいように思うのだ。

さて、話が大幅に逸れた。

ベートーヴェンop92のvivace をこのように捉えることは、実はこの作品演奏に絡むリズム誤認に関係してくる。
この6/8の付点リズムが、なぜか小節を二つの6連符にした12連符のリズムになってしまう。この「伝統的な」誤認は6/8を複合拍子として捉えてしまっている「感覚」に由来する。小節の中を二つに分割しているために起こるアクセント問題が原因なのだ。ベートーヴェン自身が気がついているようにこのvivaceは8分音符をアウフタクトとする音楽だ。だが長い付点音符へのアクセントの踏み方の強調がリズム感覚を狂わせる。

耳で感じることが楽譜と齟齬を起こすことは少なくない。感覚と楽譜というイデアの差に気がつくためには、記憶を優先するのではなく、あくまでも楽譜から考えるしかないのだ。

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