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「作品=作者の心情」を解き放つ

K.543第1楽章がそうであるようにK.504の序奏と主部の緩急対比はシステム的なギアチェンジで移行可能なはずだ。序奏を20世紀的な意味でのadagioという遅さに縛ってしまうから、この序奏があり得ないくらい長いのだ。長くなってしまうのはテンポ感が間違えているからだ。見通しが立っていないから、尤もらしい音響を鳴らして並べていく。その結果がよくある今日的な常識になってしまったのだろう。

Andante やadagioを必要以上に「遅いテンポ」と考えてメトロノーム的に4分音符や8分音符でカウントするからそうなってしまう。

楽譜に書かれているテンポ感は考察の結果見えてくる。それは「音源」とやらとは異なるかもしれない。あるいは場合によっては作曲者本人のテンポ感とは異なるかもしれない。だが、楽譜の事実を優先すればおよそテンポ感は楽譜に表れている。

この序奏は4小節めと5小節めは明らかにその二つの小節をひとつの単位にしているのがわかる。この「尻尾」を鍵にこの序奏を読み解くことができる。つまり、この序奏は2分音符の4拍子の呼吸で出来ている。そして、この序奏に於ける2分音符はallegroの小節ひとつ分とほぼ合致する。そして、その読み解きの結果として1小節めの位置が決して拍節的な「1拍目」ではないことがわかる。

①0 1 ②2 3 ③4 5|①6 7…

そして、その先は二つの小節を分母とする5拍子→6拍子→5拍子のリレーによってallegroに到達する。
この3拍子→6拍子→ 5拍子→6拍子→5拍子という形を把握できるとこの序奏も極めてシンプルなものになる。「長い」と感じさせるのは演奏者の「見通しの悪さ」に原因があるのが分かるだろう。

Allegroはその序奏の2分音符の運動サイクルを元にそれを小節ひとつ分のサイクルとして受け継ぐ。そしてまずは小節の4拍子として動き出す。それが3拍子や5拍子、6拍子にシフトすることはあっても基本的に「小節」を単位として動くことは変わらない。反復の実行も問題なく実行可能になっている。

音は思想ではない。音楽も思想である前に論理的な約束事で出来ている。作曲者の頭に浮かんだ着想も、本人の意思である前に、誰にでも理解のできる「形」である。だから論理として皆に理解ができるものになる。

「音」を「感性で聴く」のは自由だ。だが作曲と演奏はそれではフェアな立場ではない。共有しうる論理構造を持っているから作品は伝えられるし、楽譜の望みを受け取ることもできる。

「作品=作者の心情」と受け止めるのは受け手のロマンに過ぎない。楽譜に書かれた瞬間に作者と作品は切り離される。論理構造としてその構造を理解しうる文化圏の人たちに共有される形となる。「作者の心情」にこだわっている限り、作品をそのままに受け止めることはできない。それは入試の現代文が読めない理由と同じなのだ。誤解を招く言い方をすれば、主観は受け手の権利であり、作曲者や演奏者はその立場ではないのだ。「感じる」ことは自由だが、「論理」は理性の問題として、伝え、受け止めるべきものだからだ。その違いがわからないといつまでもロマンに囚われてしまう。それでは真理は見えてこないのだ。

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