富野ガンダムは絶望か?希望か?①
宇野常寛氏からのガンダム
最近になって社会学や哲学・思想に興味を持って追いかけ始めた僕は、宇野常寛さんがガノタ(ガンダムオタク)だということを知りませんでした。
Twitterでそれを呟いたところ、「えっ」という一言だけの本人からのリツイートがあって、「僕をフォローしてるのに知らなかったの?」というニュアンスだったのでしょうが、どうも界隈では知ってて当然のことのようで。
いわゆる論壇にガンダム好きがいてもおかしくはない話です。ガンダムというのは社会学的・思想的にも語りやすい作品だろうし、僕自身もガンダムを語るのは楽しい。論壇に30代40代以上の人間が多いことも一因でしょう。
それで、せっかくその界隈に足を踏み入れたのだから、宇野氏に触発されて私もガンダムを語ってみようと思ったわけです。
ただし、長くなりそうなので連載にしたいと思っています。
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さて、まず宇野氏のガンダム論を聞いてみたいと思ってとりあえずYouTubeを検索したところ、まさにタイトル通りのラジオがあったのでそれを聴いてみることにしました。
その内容については、宇野さんが触れている部分は多岐にわたるので、一つ一つについて私が意見するのは遠慮しておきます。
だだ、ひとつだけ気になったトピックがあったので、この連載で書いてみたいと思います。
富野ガンダムは「絶望」なのか?
それはそのラジオ番組に送られてきたメールの内容について。このメールは早稲田大学のガンダム研究会のメンバーからのもので、文面は以下のようなものでした。
「富野由悠季のガンダムは絶望しか描いていないが、宇野さんはどう思いますか?」
富野由悠季とは『機動戦士ガンダム』の産みの親のアニメ監督であり、その後もシリーズ化されたガンダム作品の監督を務めた人物でもあります。
現在はガンダム作品の監督は数多いますが、未だに富野由悠季のガンダムこそ真のガンダムであるとする人も一定数います。
この早稲田生のメールに対する宇野さんの回答についてはここでは触れません。
この連載では、もしこのメールに私が回答するとしたらと仮定して書いてみようと思います。
富野由悠季とガンダム
富野由悠季監督といえばその作品が「白富野」「黒富野」と分けられることで知られます。
簡単に言うと前者はポジティブで希望を感じさせる、主に登場人物たちの成長物語を重点的に描くタイプの作品。
後者はその逆で、凄惨な戦争や人の死、人間の苦悩やその業など、重いテーマを中心に深く掘り下げるような作品です。
そのあたりについて語るととめどない文章になるので、また機会を見て書きたいと思います。
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さて、富野監督はガンダムを世に出し、それがシリーズ化され、今ではガンダム市場は1000億円規模とまで言われています。
ですがガンダムがシリーズ化されたのは彼の意向ではありませんでした。
そもそも「ファーストガンダム」と呼ばれる1979年放映のテレビアニメ『機動戦士ガンダム』は当初50話程度になる予定だったが打ち切りにあっていて、43話で終了しています。
放映当時、カルト的な人気はあり、そこそこの視聴率ではあったらしいのですが、関連玩具が売れなかったのが打ち切りの原因だったと聞いています。
初回放映当時は、今でいうガンプラ=ガンダムのプラモデルが販売されておらず、いわゆる玩具メーカーが「ガキむけに」作った超合金のようなものしか無かったのです。
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『機動戦士ガンダム』は結果的にではありますが、対象年齢が中高生以上に合うような造りになっています。
だから、それまで「ガキむけの」合体おもちゃを作っていた玩具メーカーが売り出した、劇中のガンダムとは似ても似つかないヘンテコなおもちゃは売れなかったわけですね。
そして実は、打ち切りあった『機動戦士ガンダム』の人気が出たのは本放送終了後のことなのです。
バンダイによって劇中のMSを(当時の基準では)リアルに造型したプラモデルが発売され大人気となり、再放送が行われ、さらにファンの後押しによってテレビアニメの総集編的な劇場版映画が3本制作されました。
この頃にはガンダムは後に巨大なコンテンツになるか否かの分岐点にあったと思います。
結果としてはガンダムはシリーズ化され、富野監督による続編が次々に作られることとなります。
ファーストは「希望」を描いている
ここで 「富野のガンダムは絶望しか描いていないのか?」というトピックに戻ります。
僕はこう考えています。富野監督はもともと『機動戦士ガンダム』つまりファーストガンダムでは、最初から絶望ではなく希望を描くつもりだったはずだ、と。
わかりやすいのがニュータイプという設定です。
ニュータイプとは、「人類が宇宙に進出することによって進化し、感覚が拡大されて、お互いのことを誤解なく理解し合えるようになった人類」というのが元々の定義です。
そこから転じて、モビルスーツ(作中に登場する人型戦闘マシン、以下MS) の操縦に長けた凄腕のパイロットであるとか、テレパシー的な能力が使える者という描写も劇中では頻繁に行われます。
ですが富野氏が最も描きたかったニュータイプの根本は、やはり定義の部分のはずです。
これは当時の我々、つまり世の人に対して、人類はまだ進化できるし、進化しなければならならい、という富野氏のメッセージが込められていた、と僕は解釈しています。
そしてそれはイコール人類にはまだ希望がある、と富野氏がポジティブに考えていたことに他なりません。
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主人公のアムロは当初は根暗な機械オタクで冴えない少年でしたが、ひょんなことから軍隊に参加することになり、戦いの中で徐々にニュータイプとして覚醒していきます。
物語の中では定義の部分よりも、むしろ戦闘力やMSの操縦能力、つまりニュータイプの二義的な部分の進歩を描写することでそれが表現されています。
後半、アムロがニュータイプとして完全に覚醒した頃には、12機の敵MSを3分で撃墜する、まさに戦闘マシーンさながらの描き方がなされています。
しかしアムロは最終決戦の最後、つまり43話に及ぶ物語のエンディングでは、ニュータイプとしての能力を人殺しのためではなく、仲間を救出するために用いています。テレパシー的な力を使って敵要塞からの安全な脱出を仲間に促すのです。
これはどうみてもニュータイプに希望を見出だそうとしている描き方です。
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アニメの作り方としては、最後まで強力なパイロットとして戦争に参加するニュータイプのアムロを描き続け、その戦闘力でライバルのシャアやジオン軍を倒すという流れにもできます。
むしろファーストガンダムまでのロボットアニメというものはそういう傾向のものが大半でした。
富野氏はファーストガンダムで、そういう勧善懲悪のストーリーを期待しているはずの視聴者を、いい意味で裏切ってみせたのです。
最終話でのアムロの行動は、ニュータイプであっても最後はどう行動するべきなのか、というところに富野が封じ込めた、我々人類に対する希望を込めた問いかけのメッセージではないでしょうか。
ではなぜ早稲田の学生は「富野のガンダムは絶望しかない」と思ったのでしょう?
それはガンダムがシリーズされたことに起因します。
(続く)
もくぼん
Twitter : mockbomb
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