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編集者が担うべき「知性」とは?

言葉を武器に戦う仕事、とりわけ自分がいま従事している、編集者・ライターが担うべき「知性」とは何か?

「言葉」の限界?

最近、評論家の宇野常寛さんが主宰する『PLANETS』でこんな番組がやっていた。

これを観ていて、なんだか涙が出そうになってしまった。

宇野さんと國分さんの、確固たる信頼関係に裏打ちされた鋭い掛け合いは、とても刺激的だった。宇野さんが仰る通り、平成が終わろうとするいま考えるべき、「大事な話」しか話されていなかったと思う。

なかでも、特に印象に残っているのは、ある種「行動を起こす」ことに諦観する國分さんが、それでも「行動」を信じ、決して安易なテック資本主義批判(断っておくが、國分さんのことではない)に陥ろうとしない宇野さんの確固たる態度に、勇気づけられていた点。

國分さんは、言うまでもなく「言葉」のプロ中のプロだ。ただ実は、番組内でも語られていたように、「行動」の力を信じてアクティビストとして活動していた時期もあった。しかし今は、「行動」にある種幻滅し、半ば消極的に「言葉」だけでの活動に回帰しようとしている。(と、自分には見えた。)

しかしその表情には、どこか哀愁が漂っていたように見えた。言葉の力を信じながらも、「言葉だけでいいのか?」という想いも胸に抱えている。だからこそ宇野さんのアクティビスト性にも、元気付けられていたのではないだろうか。

こうした國分さんの葛藤を見て取り、涙が出そうになってしまったのだ。「言葉」のプロ中のプロでも、言葉の持つ力に限界を感じているのであれば、これから「言葉」を武器に戦っていく人びとは、一体何を信じればいいのだろうか。

「知性」を4つに分類するマトリクス

最近、こんな本を読んだ。

「知性」を武器に戦ってきた歴史学者の與那覇潤さんが、重度のうつ病で「知性」を失った自らの経験を通じて、「平成」という時代の「知性」にまつわる状況を語っていく。ミクロな視点とマクロな視点が合わさった、とても素晴らしいご著書なので、ぜひご一読願いたい。

さて、この本のp145に、こんな図が載っていた。

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言語的な知性vs身体的な知性、アカデミックvs在野の対比軸で、「知性」についてカテゴライズした分かりやすい図である。

これを見たとき、「編集者・ライターのような仕事は、どこに属することになるのだろう?」と疑問を抱いた。

たとえば自分であれば、起業家やビジネスパーソンといった「学外」「身体」で知性を担う方々の取り組みを発信することもあれば、「学内」の研究者の方に取材することもある。もちろん「学外」「言語」の在野の思想家の方に話を伺うこともある。またメディア、コンテンツというプロダクトを通じて世に発信を行う行為は、「在野の研究者」「現場のプレイヤー」的側面も多分にあるだろう。

要は、この4つのマトリクスを自在に行き来しているのが、編集者・ライターなのだ。

場合によっては、「専門性がない」とネガティブな印象を抱かれてしまう恐れもある。

ただ、自分はこれをポジティブに捉えたい。

マトリクス横断的に、「言語」と「身体」、「学内」と「学外」を行き来しながら、最終的には「言葉」というプロダクトに結集して世に送り出していくことで、「言葉」の限界を少しだけでも超えられる可能性があるのではないだろうか。

もちろん落合陽一さんの『デジタルネイチャー』に詳述されているように、「言語」の存在感が近代に比べてかなり限定的になってしまった面は否めないだろう。

だけど、もうしばらくは、前掲の図のマトリクスを横断しながら、「言語」の持つ力を信じ、可能性を追究していきたい。そんなことを考えさせられた。

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