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飲みながら料理をすれば、夕食は同時に〆にもなる

仕事を切り上げる瞬間がたまらなく好きだ。

「今日はもう閉店」と決め、頭のスイッチを一気にオフにする。

閉店の意思決定は、達成感だけでなく、ある種の諦めとともに訪れることもある。まだまだ直近締切の仕事は山積みだけれど、気力も体力も限界を迎え、やむなく閉店する、そんな日も少なくない。

でもそんな日こそ、閉店後の初動がとても肝心だ。いかにスイッチを切り替え、たとえ短い時間でも良質なオフの時間を過ごすか。それが翌朝の思考のクリアさに、大きく影響している(気がする)。

閉店後の過ごし方は、軽く飲みに出かけるなり、Uber Eatsを注文してNetflixをつけるなり、何も考えずにアルコールを流し込むなり、色々ある。人と約束している日は、それはそれで強制的にスイッチが切り替わる。

そんな中でも僕が大好きな閉店後の過ごし方の話を、今日はしたい。



同居するパートナーが不在で、必然的に夕食は一人で済ませなければいけない夜。Macをスリープ状態にしたら、まずは一直線に、食欲旺盛な中高生のいる5人家族でちょうどいいくらいのサイズ感の、やたらバカでかい冷蔵庫に向かう。かつて所属していた会社が解散するときに、オフィスに置いてあったものをみんなでオークションした際、競り落としたものだ。

冷蔵庫を開けて、缶ビールを一つ手に取る。別に横浜市民だからというわけではないが、自宅に箱買いしてあるのは、横浜に工場があるキリンビールの一番搾り。たまには、少し奮発して買っておいたクラフトビールに手を付けることもある。

何はともあれ、ビールを開栓する。それが僕の閉店の合図だ。一息にグッと喉に流し込んでからが、パーティータイム。冷蔵庫に入っている食材、そしてクックパッドとクラシルを交互に眺めながら、今夜の献立を決定する。

数分ほどアレコレと悩んだのち、「よし、今日はこれを作ろう」と収束していく瞬間は、人生でも最も気持ち良い瞬間の一つだ、と言ったら流石に言い過ぎだけれども。勢いづいてビールをもう一口流し込み、食器と調理器具、食材を取り出す。そして耳に挿したAirPodsで流すのはもちろん、ドラマ版『きのう何食べた?』のサウンドトラック。だんだんと酔いの回ってきた頭で、このサントラを聴きながら料理をしていると、どんなに簡単な料理であっても、シロさんのように副菜たっぷりの料理をしているかのような気持ちになってくる。


大事なことを言い忘れていたが、僕は別に大して料理ができない。よく失敗して、何とも言えない味の濃さの炒めものが生成されたりする。し、そこまでのモチベーションもない。揚げ物は基本的に油の処理が大変だからやらないし、魚だってたまに切り身を使うくらい。下準備が必要なタイプの料理はほとんどやらない。大抵は、味噌汁と簡単な炒めもので世界が回っていく。副菜だって、よっぽど気分が乗ったらほうれん草のおひたしを作るくらいで、基本的にはつくらない。

でも、それでいい。現代日本を代表する料理研究家──いや、料理の“哲学者”と言ってもよいだろう、土井善晴大先生は「一汁一菜でよい」と言っている。いやむしろ、一汁一菜という「繰り返し」こそがほんとうにクリエイティブな料理だという議論だと、僕は解釈している。徹底的なケの食事、すなわち固定化されたものでありながら、味噌汁の具材や米の表情を季節の変化に任せるがゆえに、ナチュラルな変化が生まれるのだと。


もちろん、化学調味料だってバンバン使う。めんつゆでラクするの上等。シロさんだって、めんつゆ愛用者じゃないか。中華シャンタンだって使う。ふえるわかめだってガンガン使う。コンビニで売っている冷凍ほうれん草を使うことだってある。

「そんなの手料理じゃない」。もしかしたら、そうなじりたくなる料理愛好家の方々もいるかもしれない。しかし、そもそも「手作り」とはなんだろうか。100%の「手作り」を求めたら、すべてを自給自足する必要がある。だいいち、調味料だってどうすればいい? まさか忙しい現代人にとって、岩塩をいちいち採取しに行くのは不可能だろう。僕たちは「市場」というシステムなしに「手料理」はできない。「家庭料理」とは、丁寧さと手軽さが長きに渡ってとめどない抗争を繰り広げてきた「戦場」なのだ。


その見地に立てば、Uber Eatsで注文した牛丼と、1時間かけて作ったカレーライスに、本質的な差異はないのかもしれない。たまごかけご飯だって、コンビニ飯だって、冷凍食品だって「立派な自炊」なのだ。


最近、『暮しの手帖』の編集長の北川さんという方にインタビューする機会があった。『暮しの手帖』と言えば、「丁寧な暮らし」の総本山かのようなイメージがあるかもしれないが、彼女は編集長就任後最初の号で、表紙にこう掲げた──「丁寧な暮らしではなくても」。彼女は言っていた。ほんとうに重要なのは、暮らしを人任せにせず、「工夫」することなのだ。

──工夫、ですか。

北川:例えば家で料理をつくるとき、つくり手の方は何かしらのアクションをする必要がありますよね。手はもちろん、頭を動かし続けることが料理なのだと、私は思います。

それは単純に「時間をかければいい料理ができる」という意味では全然なくて。包丁を使わない簡単なものでも、工夫はできる。10分でつくれる料理であれば、10分集中する。「おいしいものをつくりたい」と思って知恵を使う、手を使うというのが大事だと考えています。

──市販品を一切使ってはいけない、というわけでもなく、それぞれのライフスタイルに合わせて何かしらの「工夫」を入れ込むことが大事、ということですね。

北川:はい。私も忙しい暮らしを送っていますので、なかなか料理には時間をかけられない。それでも、毎日自分の食事を何かしらつくるんです。やはり短い時間でも手を動かしていると「料理をしている」という気持ちになりますし、それは暮らしていくうえで大事だなと思っています。



そんなことを考えながら、僕はほろ酔いの頭で、きょうも簡単な料理をつくる。小さくても、何かしら「工夫」できた実感が持てたとき、幸福感は絶頂に達する。味噌汁に新しい食材を入れてみることでもいい。いつもと違う組み合わせの炒めものをつくることでもいい。

ちなみに僕が幸福感を感じる「工夫」の一つは、かぶや大根のような、葉っぱと実の部分を両方食べられる食材で、うまく両方の部分を複数品にわたらせることに成功したときだ。

たったそんなことだが、これは僕にとって、とても大切なセルフケアであり、大げさに言えば「生の技法」なのだ。

お酒を飲みながら料理をすることのメリットは、完成する頃にはほろ酔いになっており、半分〆のような気持ちで、食事を味わえることだ。〆なのに、一食目。罪悪感なく、堂々と炭水化物をかきこめる。これも人類が編み出した「工夫」の一つかもしれない、と言ったら言い過ぎだろうか。

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