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編集者にとっての「思考」

先日書かせていただいたnoteが、思いのほか反響をいただけて、ありがたい限りだ。特に、同業の方々からの同意リアクションが多かった。


さて、上記のnoteに対して、我が師・長谷川リョーさんが、さっそくアンサーnoteを書いてくれた。これまたありがたい限りだ。これを読んでさらに考えてみたいことができたので、また書いてみる。アンサーnoteへのアンサーnoteである。


さて、上記のnoteには、以下のような内容が書かれていた。

言葉に触れるほど、飲み込むほど、自らの内に構築される言葉の世界は広がっていく。さながら、大海に、また新たな水が注ぎ込まれていくように。
どんな体裁の記事を書くにせよ、ある程度の「思考」は求められる。この「程度」を深さを追求していくことが、ある意味で編集者の練度を高めることなのだろう。
上記のnoteで、自分自身で指摘しているように、「自分の言葉を失っていく感覚」を覚えるのは至極まっとうなことだと思う。
ただ、それでも取材の数を重ねること、原稿を執筆し続けることは、乗数的に効果を発揮することだけは覚えておいてほしい。
とはいえ、冒頭で触れたように、自らの深奥に広がる海で思考=クロールするには、最適な方法がある。
それは端的にいって、私的な文章を書き続けること。

さすがの洞察の深さと言語化能力の高さ(って言うのもおこがましいですが...)にただただ敬服し、かつこれまで膨大な数のコンテンツを世に生み出してきたリョーさんだからこその説得力もあった。

これからも、商業ライティングにせよ、私的な文章にせよ、「思考」を怠らずに鍛錬していきたいと思う。


「良いコンテンツ」をつくるだけでいいのか?

ここでひとつ考えるべきだと思ったのが、「編集者・ライターにとって『思考』とはなにか?」ということ。

商業ライティングの目的は、「良いコンテンツをつくる」ことだ。「良いコンテンツ」の定義はケースバイケースだが、「わかりやすい」「学びが得られる」「面白い」「多くの人に読まれる」などが当てはまるケースが多いだろう。

その目的に則れば、「どう噛み砕き、どんな順序で伝えれば面白くなるか?」「どういう切り口でコンテンツを見せれば、より多くの人の興味を引けるか?」などと試行錯誤することが、すなわち「思考」だといえる。

非常に奥が深いテーマだし、こうしたトライアンドエラーは自分も大好きだ。


しかし、また別のタイプの「思考」も求められるのではないか、とも思った。

それは、ある種のリベラルアーツというか、いわゆる「教養を身につける」「批判的分析」といった観点での「思考」だ。「学び」と言い換えても良いかもしれない。

記事で取り扱っている内容は、どういった社会的・文化的なテーマにマッピングされ、どういった示唆を与えてくれるのか。より良い社会を考えていくうえで、どんな可能性を提示してくれるのか–––そんな風に、記事の素材を自らの思考を深めていくための「血肉」としていくことも、同じくらい重要なのではないだろうか。

もちろん、そこで得た示唆をそのまま原稿に還元することで、より「考えさせられる」「学びが深い」コンテンツに錬成させられることもある。ただし、仮にそのコンテンツ自体には何の影響も及ぼさなかったとしても、コンテンツづくりを通して得た知見を、体系的に自身の中にインストールすることで、中長期的に見ると編集者としてレベルアップできるはずだ。

コンテンツの素材を、「商品の原料」であると同時に「勉強の材料」としても味わい尽くすことで、自身の能力の総体的なアップデートにつながるのではないだろうか。

あえて口に出していなくても、優れた編集者の方々は、これを息を吸うように行なっているように感じる。だからこそ、魅力的な「自分のことば」を持っているのだろう。

そうして磨き上げた「知」が、また新たなコンテンツをつくっていく際の肥やしにもなっていくはずだ。


2019年は、「良いコンテンツをつくる」ことに加え、コンテンツを素材に「思考」して自らの「知」をアップデートすることを、意識的に行なっていきたいと思う。




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